鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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。。phu 前であったものが,同12年(1841)には初めて「杉谷敬時jの款記が認められ,同13年以降弘化4年(1847)までは,すべて「杉谷敬時」の名を用いている。もちろんこれは,あくまでも年紀のある現存画稿からの判断という制約はあるものの,このことから雪樵は,天保10年頃から同15年頃を中心とする期間に矢野派の絵師としての基礎を身につけるべく修練を積み,天保12年頃を境界にして,画号を「杉谷市太郎Jから「杉谷敬時jと改めたのではないかと推測されるのである。それでは作品を見てみよう。雪樵の作品には,款記などによって制作年の判明するものが少なく,多くは画号と印章のみである。雪樵の作品は熊本と東京を中心に少なくとも150件以上,県内の悉皆的な調査を行えば,それ以上の作品が現存していると思われるが,現段階までに筆者が知り得た作品の概要を,年記のある作品を中心にまとめたものが(表1)である。これを見ると,制作年のわかるものは,104件のうち,24件を数える。その中で,幕末期の作品は4件,いずれも「洞庭子」の号を用いるものである。古いものから,安政3年(1856)制作の〈中国人物図〉(熊本県立美術館)〔図2〕と〈鍾腫図〉(財団法人松井文庫),安政6年(1859)の〈富士図〉(熊本県立美術館),元治元年(1864)の〈鶴図〉(同前)となっている。これらはいずれも水墨を主とした作品であり,矢野家代々の画風を踏襲していることが明らかである。たとえば〈中国人物図〉〈鍾埴図〉にみる人物は,太めの描線で随所に強い打ち込みをみせる,濃い塁線によって描かれている。このような描線の特徴は,いくぶんかの差はあれ,矢野派の作品に共通する特徴である。衣紋線に限らず,総体として強い墨色によって作品に骨太な印象を与えることは,矢野派の筆法の忠実な学習によるものであることが看取される。この頃の作品は,なかでも,父杉谷行直の〈山水図〉(熊本県立美術館)や矢野良勝の〈夏冬山水図〉(同前)などに近似している。伝記には矢野良敬に学んだとあるが,良敬画の直接的な学習というよりも,現存の画稿類からも窺えるように,良敬の指導のもとに,良勝画の模写を中心に矢野派正統の筆法を学んだと考えた方がよさそうである。家にあっては父の絵を見つつ,雪樵画の基礎が固められていったのであろう。また,今見たような「洞庭子jの款記をもっこの他の作品についても,およそこの幕末期の制作と考えてよいものと思われる。画風においても矛盾はない。さらに,画稿類では天保12年(1841)から弘化4年(1847)のものに集中して見られた「敬時jの款記を有する実際の作品については,年紀をもつものはないのではあるが,「洞庭子j

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