鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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の款記をもっ作品に先行する可能性も高いと考えられることから,ここで併せて紹介しておく必要があるだろう。作例としては〈楼閣山水図〉(財団法人島田美術館)〔図3〕,〈草塵三顧図〉(熊本県立美術館),〈大黒天図〉(同前)がある。これらの作風は,やはり典型的な矢野派の謹直重厚なもので,この期の雪樵の画風を考える上で,重要な作品であると考える。さて,このお抱え絵師時代にあって,以後の雪樵の画技を発展せしめる大きな出来事となったのが,安政3年(1856)の,熊本藩の筆頭家老職にあった松井家10代章之の江戸参府に随行したことであろう。この参府の名目は,徳川家13代将軍家定への代替わりの祝賀拝謁である(注7)が,これが,先に触れた『絵画叢誌jで見た安政年間の上京であるとすると,記述の内容とは組踊をきたす。『絵画叢誌Jの記述を裏付けする史料は今のところ確認していないが,章之の参府に随行したことについては,その際の参府日記が現存している(注8)。それを見ると,絵師として随行した雪樵の名が認められ,雪樵が随所で名所旧跡を描いたことなども記されているのである(注9)。さらに,このことを裏付ける作品として〈道中風景図巻〉(財団法人松井文庫)〔図4〕がある。附属の目録などから,この図巻の後半部は文久3年(1863)から慶応2年(1866)までの3年を費やしたことが判り,全体の完成もこの頃と推定される。いわばお抱え絵師時代最後の大作といえる作品である。この作品では,先の7件とは異なって,多くのモチーフに顕著に矢野派の伝統的表現をみせているものの,写生画法を取り入れた実景描写への意識がくみ取られ,作風のあらたな展開の様子が感じられる。画稿類の中にも,〈道中風景図巻〉の下図と思われるものや〔図5〕,その他の実景図の下図の類いが多く見られ,このような写生図をもとに,さまざまな作品,とりわけ京都の写生画派の作品に見られる遠近法などを取り入れながら,絵画制作をおこなうようになっていったことが窺える。雪樵にとってこの江戸参府随行は,各地で写生を行いながら自らの画技を深めることのできる旅であったと同時に,さまざまな事物に触れる機会を得ることができたという,見聞を広める有意義な旅であったといえよう。この〈道中風景図巻〉以後,「雪樵」と名のることからも,この作品が彼にとって一つの大きな転機として自覚されていたのではないかとも思われる。このように,粉本学習による矢野家伝統の基礎を固めて,次の時代につながる新たな表現をその上に重ねて獲得しつつ,さらなる一歩を踏み出したところで,幕藩体制が終末を迎えた。

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