鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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6〕や明治19年(1886)の奉納銘をもっ〈熊本城図〉絵馬(佐敷諏訪神社)のように,II 明治維新を迎えた後の雪樵1 明治維新から上京まで明治維新は,雪樵40歳の時のことであった。維新直後の雪樵の動向について,『絵画叢誌』には次のように記している。絵筆を執るも南画隆盛の状況で雪樵の絵は見向きもされず,不本意ながらも南画に手を染め糊口を凌ぐ有様であった。さらに,熊本は西南戦争の主戦場と化し,家に伝わる粉本旧器類は悉く灰燈に帰してしまうという憂き目に遭う。しかしこの苦境にも負けずに絵画制作に励み,写生画法を習得して再び注目されることとなり,明治20年(1887)には,晴れて上京することとなった,というのである。では,実際の維新を迎えた後の雪樵の生活はどうなったのであろうか。旧藩の藩士は明治維新ののち士族となり,明治9年(1876)の秩禄奉還までは,いくばくかの禄の支給を得ていた。明治7年(1874)の『有禄士族基本帳』(注10)には「杉谷雪樵」の名が認められ,維新後もしばらくは町絵師のごとく売絵にのみ頼らずとも,安定した収入があったことが想像される。焼けたとされていた画稿の類も,現存する大量の画稿に相当する可能性が高いのは,先に指摘した通りである。さらに,この時期雪樵が他人に金銭を貸していたことを示す文書類も現存しており(注11),雪樵が生活苦にあえいでいたとは,必ずしも考えがたい。それでは,この時期の作品を見てゆく。維新直後から明治9年(1876)以前の記年作品は,幕末期よりもさらに少なく,明続き禄を得ていたとはいえ,幕藩体制の崩壊とともにお抱え絵師としての公的な仕事が減少していたことを示すものでもあろうか。それから8年あまりの空白ののち,明件を数える。これらを通覧すると,明治17年(1884)作の〈釈迦如来図〉(個人)〔図しかるべき注文による制作と思われる作品や,京都相国寺の文正面の模写でありその下図も現存する〈鶴図〉(財団法人松井文庫)のように,さらなる学習を着実に重ねながら絵師としての活動をおこなっていたことを示す作品がのこっている。その一方で,〈大黒天図〉(熊本県立美術館)のごとき,売絵とも思われる水墨による略筆の小品や,一見南画風の〈山水図〉(財団法人島田美術館)〔図7〕が見出されるのも注目される。治5年(1872)作の〈河豚大黒天図〉(個人)1件を数えるだけである。これは,引き治13年(1880)から上京前年の同19年(1886)までには記年作品が増え,その数は18620

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