鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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年紀がないものの中にも,同趣の恵比寿図や大黒図が散見される。これは,禄を失つてのち生活のためになりふり構わず描いたものなのか,人気を得ていたため各地で制作を求められたのに応じてのものなのか,あるいは新たな道を主体的に模索していたものなのか。現在のところ判定は下し難いので,今回は保留することとして,とにかくこの時期は多様な作品を制作していたようである。これらのような作品は,従来には確認されない新たな傾向をみせるもので,この後も見出し難く,この期の特色となっている。ともあれ,この時期の基準的作例を総じて見たときの作風の特徴としては,とくに山水図を中心に,幕末期のそれを基本的に継承しているようにみえる。これはやはり,先述の〈道中風景図巻〉が起点となるように考えられるもので,雲谷派の硬質な山水図という趣を伝えながら,空間を活かした,より写実性を意識した画面への志向を強くしてゆく様子が看取される。たとえば,明治15年(1882)作の〈草塵三顧図扉風〉に見られる,画面向かつて左手前から右奥へと進む遠近表現などは,〈道中風景図巻〉よりも一段と消化された形で表現されている。ここまでみてきた明治維新から19年までの間という時期は,たしかに社会情勢の混乱期ではあったが,とくに前半は,決して意に沿わない南画を無理に描いて注文主に迎合したり,売絵のみに頼って厳しい生活をしていたというような,ネガテイブな時期ではなかったように感じる。むしろ,南画にもチャレンジしてみたり,求めがあれば席画にも応じるといったような新たな試みもおこないながら,写生画派や,評伝および同時代の他の矢野派の絵師の動向に窺えるごとく中国画の技法も学習してゆき(注12),この間も幕末期に引き続いて,着実に絵画制作をおこなっていたと考えるのである。上京から没年までの雪樵の動向についても,『絵画叢誌Jによって概略をみてみよう。明治20年(1887)に上京した雪樵は,現在の文京区高田老松町に居を構えていた細川家に寄寓して作画活動にあたることとなった。細川家においては,明治25年(1892)に新築完成した同家日本館の杉戸絵制作をおこなうなど,細川家の全面的な支援を受けながら充実した絵画制作をおこない,明治28年(1895)の没年まで同家で絵筆を執ったとされている。またこの間,明治22年(1889)には宮内省の用命により孔雀図を制作し,以後たびたび御用画の命を受ける栄誉を賜るなど,華々しい活躍を見せてい2 東京時代-621-

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