たというものである。今紹介したような動向については,上京するにいたった背景や経緯などは現時点では詳らかにできないものの,上京後の制作活動については,伝記に見た細川邸の杉戸絵(注13)や,宮内省との関わりを示すものともいえる〈花鳥図〉(三の丸尚蔵館)や〈花鳥之図〉(同前)〔図8〕などが現存しており,従来の説の裏付けともなっている。また,伝記には見られないものの,明治26年(1893)のアメリカ・シカゴ・コロンブス博覧会に,宮内省御用画として出品されたことがわかる(注14)<山水図〉(東京国立博物館)も現存している。さらに,明治25年(1892)に日本美術協会会員になったことを示す証書や,同年に同会主催の展覧会に〈雪中山水図〉を出品して一等を受賞した際の褒状,このほか,同27年に開催された第4田内国勧業博覧会に〈水墨山水図〉を出品して三等を受賞した際の褒状などが先述の遺品類の中に現存し,中央画壇での動向についても知らせてくれる(注15)。やや余談にはなるが,ここにみるごとく,ここぞという時の画題が山水であるのは,必ずしも雪樵がそれを得意としていたからというだけではなくて,明治27年(1894)に発行された「絵画名家諸派一覧」(注16)に「雪舟派」として,山水・人物の画家杉谷雪樵の名が挙げられているように,「山水の雪樵」という評価を自他ともに意識していたことを映し出しているのかもしれない。博覧会への出品,邸内装飾の杉戸絵,宮内省の仕事と,大作を手掛ける雪樵であったが,制作にかける意気込みと画技の習熟ぶりは,これらの画面から十分に窺うことができる。とくに〈花鳥之図〉は,大画面一杯に描かれる孔雀や花が,精綴な描写によることはいうまでもなく,細部にいたるまで極彩色が施されて華麗に表現されている。また,木蓮の幹には強い墨色によりながら写実性への意識を感じさせる陰影が,牡丹の葉には色彩の濃淡によって葉の表裏や遠近感が表現され,ごく淡い彩色によってあらわされる背景の山水表現ともあいまって,写実味に加えて装飾性を兼ね備えた大作となっている。しかしこの画面において,岩石の表現は,洗練された画面の中ですこし目をヲ|く。太く濃い墨線による輪郭と,いわゆる織法とは異なる趣をもっ面的な墨づかいにより陰影をつける岩石は,このころの制作と推定する雪樵の作品に終始見られる特徴的な表現のひとつである。評伝のとおり,細川家の庇護を得て,大舞台での脚光を浴びる機会を得た雪樵は,山水に加えて花鳥においても,自らの才能を大きく花開かせ,存分に力を発揮して絵画制作に打ち込んだのであった。この期の作品には,矢野派独特の墨づかいをしのば622
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