注(1) 雪樵存命中のもので,もっとも古い伝記といえるのは,嘉永4年(1851)に内田られる。しかし同時にそこには一貫して,骨格の強さを導く重々しい,濃い独特の趣をもっ“墨”に対する意識が継続して感じられることを見逃すべきではない。これが遠く雪舟を祖と仰ぎ,雲谷派,矢野派と受け継がれて,雪樵が自らの核として終生捨てることのなかったものであったと考える。雪樵の場合,維新後もなお,細川家の庇護を受けることができたという,この期のお抱え絵師の経歴をもっ者としては幸福な例外なのかもしれない。しかしともあれ,彼はその環境を充分に活かし,激動の社会変革の波にのまれて消えてしまうことなく,一つ一つ新たに積み重ねるようにして,自らの画技を完成の域へと導いたのであった。そしてその境地は,確かに近代日本画の一つの到達点をみせているものと考えるのである。今回は,画稿類や作品の検討によって,従来の評伝の再検討と総合的な評価を試みたが,なお文献史料の調査や作品の検討が不十分なところは多い。今後は,新たな資料の発掘や,落款・印章の分析などによって,杉谷雪樵と彼の作品についてのより具体的な評価や,その本質へと迫ってゆきたいと考えている。恒助の著した『肥后藩雪舟流画家伝』(安政元年(1854)の写本が熊本県立図書館に所蔵される)である。同時代史料ゆえに信用できるものであるともいえようが,これは雪樵が未だ24歳の時のものであり,「(行直)子敬時,杉谷市太郎,号杉谷,学子良敬/(良敬)弟子敬時,杉谷市太郎,号杉谷,行直子,能継父業,最長水墨,藩画師Jと記されるのみである。次に,没年の翌年,明治29年(1896)に野口勝ーが「杉谷雪樵翁伝Jとして著した『絵画叢誌』巻第114の記述が古く,かつもっとも詳しい内容となっている。さらに,明治31年(1898)の『国華J104号の評伝(筆者不詳),同36年(1903)の藤岡作太郎の『近世絵画史J,大正13年(1924)に九州、旧日新聞社に連載された後藤是山著『梶山九江j159の記述が続く。そして,昭和3年(1928)に刊行された武藤厳男編『肥後先哲偉蹟後編』に,『絵画叢誌』『近世絵画史Jの採録とともに載せる「淵上翁」という人物が語ったとされる雪樵伝(以下「淵上翁」と略す)が,それぞれ微妙に異なる内容をもっている。これらが基本的な文献となっている。また,昭和45年(1970)のものではあるが,雪624
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