華Jでは安政の上京後から明治20年の上京以前の事として,「雪樵唯リ刻苦精励最(2)墓碑銘「文政十年九月二十六日坪井浦島町に生る/明治二十八年八月八日東京(3) 「淵上翁」,『杉谷家の先祖達』(4) 『肥后藩雪舟流画家伝j(5) 『肥后藩雪舟流画家伝Jに「藩画師」と記されていることから,この画家伝の成つ(6) 実際の作品は未確認である。(7) 『松井家譜』ほか参照。(8) 参府日記の原本は八代史料研究会蔵。八代古文書の会によって1994年に活字化さ(9) 3月25日条に「井口ダヲと申所海辺,岩小嶋之様に出花有之,鳥井有之処ニ暫ク樵の子孫である杉谷良夫氏が独自の調査によってまとめた[杉谷家の先祖達』も,今後内容の検討を行う必要があるものの,先に挙げた文献には見られない内容を含んで、いるので,参考とさせていただいた。小石川区細川侯爵邸内で宮内省御用画揮事中残六十九歳/画門吉井樵月/高木樵峰/近藤樵仙/謹建」た嘉永4年(1851)の時点で,既にお抱え絵師の身分であったことが推察される。前掲(1)参照。れたものを参照した。小休ミ,杉谷一太郎此処之図ヲ写シ候」,また10月19日条に「富士見平らと申山ヨリ富士山ヲ杉谷市太郎写シ,(中略)此処至極詠メも宜敷,富士山も見ル故,猶同所よりも市太郎描キ候様申付置候」という記述が見える。。。原本は熊本大学附属図書館蔵。熊本県立図書館蔵写本を参照した。同先述の雪樵ゆかりの個人の所蔵する遺品類に含まれる。同中国画の学習について,『絵画叢誌』では安政の上京以前の事としており,「山水人物は,玉淵(澗ヵ)夏珪の意を主とし,花鳥は呂紀徐!轄の風を慕ひ,眼目を明以上の奇蛸に注ぎ,大いに発明するところあり」と記している。これに対し『国モ北宗ノ画ヲ研究セリ,蓋シ雪樵ノ伎大ニ進歩セシハ実ニ此時ニアリト云フ」としている。同この細川邸は,大正12年(1923)の関東大震災ののち一部が解体・移築され,東京都杉並区の異盛寺と世田谷区の幸龍寺に,それぞれ保存されている。同『海を渡った明治の美術再見!シカゴ・コロンブス世界博覧会』東京国立博物625-
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