に記される日本の禅宗派祖の肖像は当地にはきわめて少ない。筆者は平成3年,福岡市博物館で「博多禅」と題した展覧会を開催し,そうした鎌倉時代より北部九州を中心に展開した臨済宗の禅宗文化について概観した。幻住派についてもすでに,その中で一部触れていた。しかし,今回,広義の幻住派とともに,15〜16世紀の北部九州を中心に活動が知られる狭義の幻住派についても対象とした。広義の幻住派は,よく知られるように,元代の中峰明本の派下で,九州では豊前出身の無隠元晦が入元し,中峰の法を嗣いだ。無隠にゆかりの福岡県田川郡赤池町・興国寺には,南北朝時代の無隠の等身大の彫刻が,そして,長崎県壱岐・安田寺には室町末期から江戸時代にかけて,それを写したと思われる同じく等身大の彫刻が残る。興国寺像はモデリングに優れた奥行きのある造像で,中央の仏師の手になるものと考えられる。そして,安国寺には江戸時代の中峰明本像や無隠元晦の肖像画も残る。中峰像は元代の肖像の写しで,無隠像は上部に楚石党埼の賛文の写しが書かれ,それが愚極礼才の筆になるとする江戸時代の大徳寺287世住持龍巌宗棟の追記が書かれる。安国寺は無隠の時代には海印寺と称したが,江戸時代には大徳寺傘下に入り,その歴代の肖像も当寺に残る。無隠像の画像と賛文とは別紙で,画像には海北氏の印が捺される。無隠の法系は,まもなく絶え,興国寺(無隠の頃は宝覚寺)も周防の大寧寺の末寺となり,曹洞宗の寺院となった。しかし,その後,15世紀に狭義の幻住派と称する,丹波高源寺の遠渓祖雄の派下の人々が出て,彼らの多くが九州筑前の出身であったため,再び当地に幻住派の勢力が高まった。とくに博多においては,一華碩由の法嗣湖心碩鼎が,博多・聖福寺の第105世の住持を務め,天文8年(1539)の遣明正使となり,天竜寺の策彦周良を副使として明に渡るにおよび,その門弟が当地で大きな事績を残す。残念ながら,彼らの北部九州での大きな拠点となった聖福寺には,彼らの肖像は残らない。ただし,元代に描かれた高峰,断崖,中峰の幻住派の三師の肖像(重要文化財高峰断崖中峰像)や明代に描かれたと思われる中峰明本の像は,無隠元晦以来,幻住派の拠点となった当寺の位置をわずかに示すものと考えられる。湖心は肥前岸巌(現在の佐賀県相知町と北波多村)の城主波多江主河守の依頼により,唐津にあった近松寺,少林寺の二寺を天文10年(1541)再興した。この由縁によってか,両寺には湖心の頂相がそれぞれ備わる。とくに近松寺像には享禄4年(1531)の自賛が書かれ,生前の寿像であることがわかる。両像とも法被を掛けた背の高い椅-633-
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