鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
645/763

子に座す姿を濃彩であらわす,典型的な頂相のスタイルである。ただし,岡本の像主の面貌は異なる。また,近松寺には湖心の法孫であるが,王自林玄琉が早世したため,その法嗣となった耳峰玄熊の自画の肖像〔図l〕が残る。紙に墨画で描かれ,脇息に腕をかけ,整然と座すが,傍らに酒が入ると思われる大きな査を置き,壷の上には直接酒を酌んで、飲んだかもしれない井のような茶碗が被せられる。この変った構成の肖像には,まさに酔中に書いたと思われる乱れた賛文が書かれ,慶長(年号のみ書かれる)年間に制作されたことが知られる。少林寺には耳峰が描いた達磨の墨画が伝わり,絵をよくしたことが推察される。少林寺にはさらに耳峰の法嗣天桂明完の頂相も備わる。幻住派は当時,聖福寺以外の博多の禅寺にも勢力を持っていたようで,東福寺と関係の深かった承天寺においても,駿岳碩甫(元甫),九白玄菊ら幻住派と考えられる僧が住持となった。承天寺の塔頭であった乳峰寺には駿岳の頂相があり,永禄9年(1566)の駿岳の賛が書かれる。やはり濃彩の曲京に座した姿を表す伝統的な頂相のスタイルである。この賛には「幻住十一世」と自ら称している。これは近松寺の湖心碩鼎の像の賛などに湖心が「幻住十世jと書くのに対応し,駿岳が湖心の法嗣であったと考えられる。幻住派は密参により,表向きの法系とは別の幻住派の師についたが,駿岳も東福寺の法系にありながら,湖心に密参したことも考えられる。福岡・個人蔵で狩野松栄が描いたことで知られる承天寺図は,この駿岳のために弟子の九白が策彦周良に賛を依頼したものである。賛には元亀元年(1570)の年記があるが,策彦は湖心と入明した頃より,博多の禅僧,とくに幻住派の僧とは交渉があり,図の成立を促したと考えられる。小幅の墨画による名所図形式の境内図であるが,図中には書院に読書する駿岳らしき僧が描かれ,承天寺を形式的に表現するというよりも,現実的に駿岳を図中に表して顕彰しようとする意図が伺える。湖心のもう一人の法嗣景轍玄蘇は秀吉の朝鮮出兵の折,通事となったことで知られ,対馬に以町庵を聞いた。以町庵の後身である西山寺(厳原町大字国分)には,景轍玄蘇とその法嗣規伯元方の彫刻が残る。景轍の像はほぼ等身大で,規伯の像は2尺ほどの小振りの像である。これらは江戸時代初期までに制作されたと考えられる。それは,規伯が対馬藩の騒動により,奥州南部に配流され,以町庵は輪番制となり,筑前の幻住派はその足跡が消滅するためである。ただし,肥前において,幻住派はわずかにその痕跡をとどめる。耳峰玄熊の法嗣で634

元のページ  ../index.html#645

このブックを見る