鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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つ。ある閑室元信は足利学校の庫主となり,出身の肥前小城に三岳寺を聞いた。三岳寺には閑室の自賛の頂相が残る。これは京都・円光院本と同図様で同じ賛文が書かれることから,制作の状況が近いことを示している。曲録に座した像主を丁寧に描き出す,桃山時代の頂相の優品である。また,湖心の法嗣嘱岳鼎虎は早く毛利氏,古川氏と関係があり,山口に洞春寺を聞き,岩国・西禅寺と関わりを持った。さらに全国の幻住派の拠点となった丹波・高源寺など,九州、|の幻住派を知る上で,九州以外の幻住派の関係寺院の調査も必要であろ江戸時代の禅宗において最も美術に影響が大きかったのは明より来朝した隠元が広めた黄葉宗であろう。九州でも北部九州を中心に新しい寺院の建設や絵画・彫刻など,新奇の美術が急激に制作された。その影響は俗人の肖像などにも見られる。黄葉宗の肖像については,隠元生誕四百年を記念した多くの展覧会や地域の調査により,新たに多くの作品が見出され,衆人の鑑賞するところとなった。また,黄集美術の画家についても精椴な研究により,次第に正しい認識を得ている状況である。こうした今日にも美術としてはっきり事績が残る活動ではないが,九州には江戸時代中期より臨済宗の妙心寺の傘下の寺院で,古月禅材の派が,大きな勢力を持ち,それに関係する寺院も多いのが特徴である。古月禅材はI東の白隠,西の古月」と称され,衰退しつつあった江戸時代の臨済宗を盛り上げた人物である。出身は日向佐土原(宮崎県佐土原市)で,その門弟は全国に存在した。生涯の多くを九州で過ごしたが,現在ではその業損を顕彰する向きは少ない。古月の派下からは白隠のもとに転派する僧もおり,それが逆に白隠の作品を九州、|にもたらしたり,あるいは白隠派のなかで書面を作った東嶺(円慈)らの僧もいた。また,博多に下った仙庄は武蔵国東輝庵の月船禅慧に参禅したが,月船は古月の法嗣で,結果として白隠に直接学ぶことなく,古月派下において禅画を描く人物が現れたのである。九州での古月の足跡は郷里の古利・大光寺を中心として,晩年に帰依された有馬氏の久留米に及ぶ。両寺には,古月の頂相が備わる。古月の語録『四会録』などの記録には,延享元年(1744)久留米・梅林寺の開創に伴い,古月の寿像を2幅作り,面相2 古月禅材関係の寺院-635-

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