は鶴権蔵が写し,その他は久留米の御用絵師三谷仙雪が描いたことが伝えられる。しかし,現存する頂相はいずれもこの記録の像ではない。大光寺には刺繍による頂相が残り,女性信者の手になることが記録され,古月の庶民への布教の様子を知る手だてとなる。なお,久留米藩御用絵師三谷家資料の中には「古月和尚頂相」の写しが残り参考となる。(『久留米藩御用絵師絵画資料目録J久留米市文化財調査報告書第三十集)大分・臼杵の月桂寺は古月の法嗣層嵯,あるいは同門の定山の弟子独園,その法嗣陶雲などが世代を継いだ。現在,月桂寺には彼らの頂相を残すが,注目されるのは,これらの頂相のなかに,のちに述べる「絵所左京」を名乗る絵師の作品が含まれることである。賛に慶安2年(1649)の年記のある大安智瑞像には「絵所左京亮勝従」の落款が書かれ,元禄9年(1696)の年記のある鉄帯宗州像には,「絵所左京亮筆jの落款が書かれ「景綱」の印章が捺される。さらに特筆すべきは,開山湖南宗巌の師南化玄興,そして,その師である快川紹喜の頂相を所蔵していることである。快川の像は自賛で永禄己巳(12年・1569)の年記がある。黒漆の唐草文様の曲末に座し,金欄の袈裟を纏い,竹箆をしっかりと握る。頬骨が張り,顎が細く,きっと釣り上がった目は鋭い表情を見せる。モデリングや面相,衣の描写に優れた当時の優れた頂相である。よく知られるように,快川は天正10年(1582)信長の怒りを買い,甲斐・慧林寺の焼き討ちに自ら身を投じた。したがって,このような生前の寿像は貴重であろう。また,月桂寺には臼杵藩主の稲葉氏歴代の肖像もある。その初代に当たる稲葉一鉄の肖像は妙心寺本の写しで,天正17年(1589)大徳寺第130世玉甫紹諒が書いた賛の写しに続いて,貞享3年(1686)当寺の住持鉄帯宗州の追賛が書かれ,成立の時期が推定される。一鉄の嗣子の貞通像は慶長8年(1603)の南化玄興の賛があり,描写も堂々とした姿勢で,桃山時代の武将像の特徴を表すが,伝えのように狩野永徳の手になるとは考えにくい。描線,彩色は慎重で,濃墨線の使い方など,どちらかというとやまと絵的で肖像の通例の描写をよく知る画家の手になると考えられる。おそらく父のー鉄像を参考に,優れた像容を作り出したように思われる。九州、|における桃山時代にさかのぼる武将像として貴重である。また,古月の派下蘭山正隆が住した小倉(福岡県北九州市小倉南区)開善寺にも歴代の世代の頂相が備わる。開善寺は豊前藩主小笠原家の菩提寺であった。もとは小笠原家の領地信州にあった寺で,小笠原家の転封に伴って,小倉へ移った。鎌倉時代に-636-
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