小笠原貞宗が清拙正澄を迎えて開山としたことからか,清拙が賛を書いた布袋図も残る。桃山時代に妙心寺派に転じ,その世代である速伝宗販(妙心寺第61世)の頂相〔図2〕が残る。賛は鉄山宗鈍。賛によると本図は,確かに信州開善寺の住持となった速伝のために描かれたことがわかる。本図には「土佐法眼徳悦筆jという,絵師の落款が付され,絵所左京徳悦の手になることが知られる。絵所左京については秋山光和先生の研究で,東寺の講堂中壇本尊の大日如来,そして同じく東寺金堂薬師像の十二神将などの修補彩色の絵師として,その名を知ることが出来る。また,福岡市博多区の東長寺の両界長茶羅はその修理軸木の墨書から寛永5年(1628)徳悦の手になったことがわかるほか,徳悦の後継者とみなされる絵所左京貞綱は福岡県山川町江月寺の隠元像を描いたことが記録され,結果的に,先の月桂寺の新出の作品を含めて,九州に絵所左京の事績が多く残ることが注目されよう。ただし,調査対象を追っていくと,古月派の跳梁が江戸時代後期であるので,古月の関連の寺院は実は九州の妙心寺派の有力寺院であることがわかる。先の月桂寺=稲葉氏,開善寺=小笠原氏,あるいは自性寺=奥平氏など,それぞれの大名の菩提寺であり,それぞれ現在の地に聞かれる以前の経緯があり,九州という地域に限定されない優れた肖像を蔵している。これまで九州の禅宗美術は臨済宗を中心に語られることが多かった。それは先に述べたように栄西が禅宗をこの地から始め,日本の臨済宗の草創の地という視点が強かったからかも知れない。無論,その流れは絶えることなく,栄西の聞いた聖福寺のみならず,大応派の拠点であった崇福寺や東福寺派の九州、|の拠点承天寺などの禅寺が大いに栄えたという史実も背景にある。そして,美術の研究者の調査もそうした臨済宗寺院を中心に行ってきたのである。しかし,九州南部の寒巌派(熊本)や通幻派(鹿児島)の活動や大分・国東の泉福寺の開創など,臨済宗にやや遅れてではあるが,鎌倉時代から室町時代にも,九州での活動が認められるのである。すでに寒巌派の美術については,熊本県立美術館によって,精綴な調査が東海地方にも及んで、,その成果により展覧会も開催されている。また,近年,駒沢大学によって,典籍を中心とした調査も行われ,その調査報告書も3 曹洞宗の肖像美術-637-
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