鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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ハhu円J上梓されている。今回改めて,広く禅宗美術の肖像を解明するため,まず近郊の曹洞宗の寺院の調査を行った。その結果,江戸時代の地誌などで知られる以前の寺の成立の背景や,また,江戸時代における繁栄のため,優れた肖像を見出すことができた。その作品も山口の曹洞宗寺院との関連も見られるなど,九州、|の禅宗文化における美術の成立を知る上でも示唆される点カf多いように思える。福岡市中央区今JI!.金竜寺は,福岡では慶長期に聞かれた寺院である。しかし,その所蔵の頂相のなかで,開山桃岳瑞見の像は,永正9年(1512)の自賛があり,その法嗣で金竜寺第一祖の慶庵瑞賀の像は穂持寺の勤岩珠瑞の大永2年(1522)の賛が書かれる。このように16世紀初頭からの歴代住持の頂相が近代まで備わる。これらの頂相の中で永禄甲子(7年・1564)の年号がある月舟承甫像〔図3〕には,「雲渓筆」の落款と朱方印が捺される。これはいわゆる雪舟流の一人である雲渓永恰の手になることを示している。雲渓については,すでに福島恒徳氏がその作品と年譜を明らかにしている。福島氏の研究では雲渓の永正から天文にかけての活動を確認しているが,ここに新たに永禄年間の頂相を加えることができたと言えよう。大分市・大智寺(臨済宗南禅寺派)にも「雲渓筆」の落款を記した達磨図が所蔵され,九州、|の禅宗寺院にその作品が伝えられていることがわかりさらに調査により作品が見出されることを期待する。また,天正8年(1580)の自賛の彰翁慶沢像は「石渓筆」の落款があり,次の雪舟的伝も含めて,周防の画家の手になるのではないかと考える。その名も「雪舟的惇」と印章に捺す画家の手になる頂相がある。観室寅察像と三盛洞寅像である。観室像には寛永19年(1642)の自賛が,三盛像には寛文8年(1668)の省道の賛が書かれる。金竜寺が所蔵する浬繋図に「金龍省和尚依糞望不得拒画之以寄進駕寛文十三発丑春二月吉且雪舟的停車幡諒遂休畳図之jとあり,その名を知る。17世紀の前半に活動した画家で,やはり自ら雪舟流を名乗った,おそらく周防の画家であったと思われる。これら山口の画家の作品が,歴代の早期の頂相に多く見られることは,金竜寺がいまだ糸島の高祖(現在の福岡県前原市)に,当地の領主原田弾正少弼弘種は大内家に属し,山口の大寧寺の桃岳瑞見を勧請して,その法嗣慶庵瑞賀を第一祖として開いたことによると思われる。

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