鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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円くUFhU 安2年(1649)に現在の地に移った。藩主黒田氏の支配下,その頂相も次第に福岡藩金竜寺はその後,慶長17年(1612),檀越高橋匡順によって福岡荒戸山に移され,慶の御用絵師の手になるものが見られる。藩の筆頭絵師であった尾形家の中でも名手として知られる尾形友元(千山道川像)や山笠絵図を描いたことで知られる上国家の一人上田蝶遊斎(大喝哲雄像)などである。また仏頂党光像は尾形家絵画資料(福岡県立美術館蔵)の「金竜寺党光和尚像」が同図様で,その落款により,尾形探香の作であろうと考えられる。また,19世の快禅宣鞭像も尾形家資料の中にその写し,あるいは下絵の図が見られるので,尾形家の絵師の手になるものかもしれない。そのほか,当寺には元禄期に作られたと考えられる大野貞勝忠衛門という武士の等身大の肖像彫刻があることも興味深い。面貌や着衣のようすなど,やや工芸的な印象もあるが,大ぶりでふくよかな相貌をよく伝えている。残念ながら像底はふさがり,構造や体内のようすは不明で、,作者も知り得ない。元禄頃に加賀・大乗寺の日山道白が一時的に筑前へ下り,曹洞宗寺院の動向に影響を与える。東林寺(福岡市博多区博多駅前)および明光寺(福岡市博多区吉塚)には,目山の頂相が所蔵され,東林寺本には江戸時代に発見された利休の茶書『南坊録』の筆記者として知られる立花実山が絵を描いている。田山はそののち江戸に上り,幕府に宗弊改革について訴えることとなるがこれらの頂相は江戸時代の曹洞宗の中興者百山の足跡を跡づける資料となろう。4 研究の指針九州、|という一地域のなかの肖像美術,なかでも禅宗寺院の資料の調査研究という,日本の美術資料の中でも,ごくわずかな対象のように思えるが,調査対象は多く,また,結果は多様である。さらに地域的にも他地域との関連も見出され,地道で行動的な調査を求められる。しかし,得られる調査内容は決して一地域の文化に限られるものばかりではない。そこには九州と中央あるいは九州と他地域との文化の交流によって導かれた肖像美術も多い。無論,都や他地域の美術も同様であるが,肖像美術は所蔵者や地域との関連が深く,地域の歴史,文化の重要な表現,証しとして存在する。今回は,禅宗以外の僧侶の肖像を対象とすることができなかった。とくに中世以来,数多く存在する武将像をまとめることができなかった。それらは細川家の肖像のよう

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