る。第一にそれは未完成でAあることによって,通常の道路の持つ社会的な役割からはなれて,純粋に走ることを経験させる。(機能を剥奪された人工物はシュルレアリスムのオブジェと化す)。第二に,目的意識から離れた高速の走行は,人間の歩行がもたらす知覚とは異なった時空間の生成を意識化させる。第三に,このドライヴにおいて視野に入っていくるものがすべて人工物であるということ,従ってこの時空の体験が人工的なものであるということが,彫刻家であるスミスに衝撃を与える。運動を表象しようとした未来派との比較はここでは問題にならないだろう。というのも,未来派の絵画では,不動の視点から運動を表そうとしているのに対し,ここではすべては相対的な移動と変化の中に置かれるからである。ロパート・ホップスは,「この記述がスミツソンに,20世紀の人聞が空間を理解するあり方について考え,新たな彫刻空間のためのパラダイムを見出すためのきかっけを与えた」としている(注6)。それが直接スミッソンの霊感源になったかどうかはともかく,スミッソンが有していた時間に対する観念と,スミスがここで述べているような空間の観念は,非有機的,非擬人的なそれであるという点,そしてすべてが変化し,絶対的な定点がないという点で,共通点を持っていた。そしてこのような空間に,今世紀の彫刻が取り組んだことはあったにせよ,実現しえていないということは明白だ、った。というより,実体的な空間がほとんどすりぬけていってしまうこのような空間観,あるいは別言すれば,時間によってしか姿をあらわさない空間を,いかにして空間として,あるいは彫刻として表現することができるのだろうか。3.初期の彫刻ク・チャンパーズ〔対掌体の室〕〉において,スミッソンは対掌(鏡像)体関係につくられたフレームに,互いに45度に傾斜した鏡をはめ込んだ。作品に正面から近づくと,自の前に鏡があるのに,そこには自分が映らない。それはまるで確かにここにいる自分の存在が,不確かなものに思えるような彫刻であり,安定した空間認識を動揺させるものである。この頃彼は他にも複数の鏡を用いた立体作品をつくっているが,いずれも鏡が見るものに対して平行になく,ある角度を持ち,多方向の周囲世界がぱらぱらに映し出される。フレームはあるものの,破砕された周囲の空間の反映がその虚ろな空間を満たすのである。これらは先のトニー・スミスの文章が発表された66年より1965年に制作された,壁に設置されたレリーフ状の作品,〈エナンチオモーフイツ646
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