鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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も以前から始められているが,既に彼が,彫刻における(それが依然として彫刻と呼べるとするなら)新たな空間の可能性を探っているのがわかる。といってもそこでは,実体的な空間が破砕され,言わば,無化されているのである。漸次的に縮小しながら反復する立体作品である。スミッソンはこのような,単純な幾何的形態、が集合し,言わば遠近法的に縮小していくというモチーフを,この後の彫刻作品においても多用している。これらは,集合し積層し,連鎖的に反復する形態という点で,原子が一定の規則的な連鎖構造をもって並ぶ結晶を想起させる。漸次的に縮小していく感覚はまた,遠近法や,合わせ鏡,またはモニターに向けられたヴイデオカメラの自己反復する映像などを想起させる。これらの作品は,外見上,ドナルド・ジャッドやロパート・モリスのようなミニマル・アートイ乍品のひとつと見なしたくなるが,前者の「特殊な客体」ゃ後者の「ユニタリー・オブジェクト」といった観念を適用するのは無理がある。というのも,スミッソンの作品は,知覚論的な「ゲシュタルトjの概念や「全体性Jに対し,無際限に増殖していく,非有機的な結晶構造の印象を与えるからである。ジャッドやモリスの作品が,比較上,現実の空間の中における実在感と知覚上のある種の有機性を備えているとすれば,むしろスミッソンの作品は,個々の要素が互いに反響しあい,終わることの無い連鎖を,無意味に反復しているように見える。実際,〈アロゴン〉とは,非ロゴス,非論理ということであるが,数的な(従って一見論理的な))||買列を,lつのゲシュタルトに収数しない,従って意味を形成しない,幾何学的な概観のなかに閉じ込めているという逆説を示していると考えることができる(有機的な統一性を持たない,無意味な幾何学としての結晶的構造)。それがもし意味を備えているとすれば,この逆説なのであり,それがもし彫刻と呼べるとするなら,逆説を彫刻の主題と見なせる限りにおいてなのである。4.彫刻から「サイト/ノン・サイト」へ大掛かりなアースワーク作品に着手するために広大な自然の領域に踏み出す以前から,スミッソンは北米大陸中をヒッチハイクして回っていた。いやそれ以前の少年時代から彼は,博物学者になることを夢見,化石や鉱石や腿虫類の標本を求めて,アメリカの雄大な自然の旅を何度も経験していた。この意味で彼はアーテイストとして自己形成する前から,アースワーカー的な資質を示していたといえる。ある時期から彼1966年の〈アロゴン〉は,立方体を元にした単純な幾何学的な形態のブロックが,-647

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