キストとして,現実と映像と言語の境界に,互いが互いを反映しつつ,多層的に書き込まれているのである。この意味で双方がそのスケールによってモニュメンタルな威容を持つにも関わらず,スミッソンのアースワークが,マイケル・ハイザーのようなアーテイストのそれと決定的に異なるのは,後者においてはその恒久的な行為の痕跡こそ重要で、あるのに対して,その恒久性の反転こそが問題であるからである。ハイザーは,自然と載然と分かたれる幾何学的・建築的形態を好んで用いたが,スミッソンの流し落としによる作品は文字通り偶然の生み出す不定形であり,あるいは円環や螺旋形といった極めて単純な,循環や連鎖を想起させる形態が用いられ,自然とコントラストをなすのではなく,なじむような形象が用いられている。自然と人工という弁証法,あるいは人聞がっくり出すもろもろの境界一一時間,空間,論理,言語の確実性の幻影を,可能な限り「非空間」によって掻き消し,「未来と過去に通じる空間」を見出し,モダニズムの外部への出口に到達すること。それこそがローパート・スミッソンが短い芸術活動の中で彼方に見据えた目標ではなかったか。彼は現代の産業家達に訴える。採掘と土地再生との弁証法を展開しなければならない。露天探鉱のような荒廃した場所は,アース・アートによって再生利用することが可能だ。芸術家と鉱夫は,自らが自然の代理人であることを意識しなければならない。鉱夫が,テクノロジーの抽象性の中で,自分が行っていることに対する意識を失うとき,自らの内的自然や外部の自然に対処する能力を失う。芸術は,エコロジストと産業主義者を媒介する物的資源になり得る。ピーボディ石炭社,アトランティック・リッチフィールド社,ガーランド炭鉱杜[…]は,芸術と自然に気付く必要がある。さもなければ,彼らは自らの足跡として公害と廃嘘を残すことになるだろう(注9)。スミッソンの最晩年の土地再生プロジェクトは1つも実現にこぎつけたものはなく,今まさに始まろうとしていたときに,彼自身が「非空間jの中に消えていったのである。650
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