表わしているという点であろう。このことは,女性擬人像により何らかの抽象概念を示すという,コラン晩年の象徴主義的傾向を先取りしているとも考えられる。つまりこの時代のコランは,同時代の匿名の女性像を描くことで,独自の擬人像による晩年の象徴主義的作風を徐々に準備することとなったのではなかろうか。また,〈夏〉に続きコラン二作目の大作となった1892年の作品,〈海辺にて〉〔図15〕は,同年のサロンに出品されると共に,1900年のパリ万国博覧会にも展示された。この万博のカタログでは,〈海辺にて〉は「林氏所蔵jなっており,この頃までにこの作品が林忠正の手に渡っていたことが判る。さて,このく海辺にて〉は,大作ゆえか1892年のサロンでも批評家の注目を集めたようで,多くの批評が寄せられたが,興味深いのは批評家たちが,海辺で輪舞するコランの裸婦たちを神話の中に登場する[ニンフ」とする場合と,そのか細く華者なモデリングからコルセットで体を細く絞った同時代の現実の女性と看倣している2つの場合が存在することである。輪舞するニンフの図像は,プッサンの作例ヵ、らしても,フランス画壇の伝統的主題であったことが窺われる。事実,19世紀にもジャンモやスカルベールの作品などに,この図像は見受けられる。また,〈海辺にて〉と同年のサロンには,カルベがく青春〉というタイトルで同様の図像を描いている。こうした女神の図像は,時には青春や春,あるいは歓喜の象徴として,時には女性の裸体を描くための口実として描き続けられていたようだ。従ってコランの輪舞する裸婦たちが,「ニンフ」とされたのも領けないではない。ただ輪舞する女性像が常に神話の女神と看倣された訳ではないようで,例えばシャパの1899年の作品〈大はしゃぎ〉は,1899年のサロンで肉体の自然主義的措写やモデルの心理までも描き出す巧みさを賞賛されることはあっても,「ニンフ」とされることはなかったようだ。シャパの写実的な裸婦が「ニンフ」とされない一方で,コランの大気に溶け込むような華者ではかなげな裸婦が「ニンフjとされたのは,やはり形態のモデリングのもつ現実感の違いであろう。そしてコランのこのある種現実的実体を感じさせない裸婦が,コルセットの跡を身体に留めた同時代の女性ともされたことは,興味深いことではなかろうか。当時のファッション雑誌からも知られるように,19世紀末頃には,胴部が細くしま
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