町.1900年以降ったシルエットが女性のモードの流行であったようだ。とはいえ実際にはこうした体型の女性などいるはずもなく,女性たちはコルセットの力を借りて理想の体型に近づこうと懸命であった。そして1892年のサロンの批評家がく海辺にて〉の裸婦に重ね合せたのは,当時の女性たちが人工的に得ょうとしていた一種の理想美であったとも言えるかもしれない。つまりコランはく海辺にて〉において,伝統的図像と時代の理想美を融合させることにより,古典性と近代性の聞を揺れ動く絵画世界をなそうとしているのではなかろうか。そして,こうした同時代の女性の風俗を写し取る作風は,1890年代の着衣の女性像へと展開されていく可能性を含んでいたのではないだろうか。一方,1880年代に大きな社会的成功を収めていたコランは,1890年代にも引き続き公共建築物の装飾画を多く注文された。パリ市役所のためのく詩〉,オデオン座のための天井画,オペラ・コミック座フォワイエの室内装飾画がそれで、ある。1890年代は,コランが装飾画家として最も活躍した時期と言えるだろう。コランの晩年にあたる1900年以降は,コランが象徴主義的な作風を顕著に現わした時代である。すなわちこの時期には,1902年のサロン出品作のく孤独〉〔図16〕のように,単身の女性像をタイトルに示された抽象概念を示す擬人像に見立てた作品を多く制作することとなる。人体もより筆触の目立つ措法で描かれることとなり,背景の描写とあたかも溶け合うかのような独特の夢想的世界が描き出される。ただし,肉体の描写に際しては,現実のモデルの身体的特徴をも留めており,これにより画面には,夢と現実が混じり合うかのような独特の味わいが見られることとなっている。こうした特徴は,1904年のサロンのく静寂〉〔図17〕や1905年のサロンのく異教的情景〉〔図18〕,及び所在不明作品の複製図版などからも十分窺い知られ,1900年以降のコランの一貫した作品傾向を伝えている。またこの時期のコランは引き続き装飾面の注文も受けており,リモージュ県庁の天井画や,死後設置されたことが残された公文書類から知られるフォントネー=オ=ローズ市役所婚姻の聞の装飾画などを手がけている。660
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