鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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るわけではなく,さしあたってできることとして,個々の作品についての画風及び印章の整理・分類を行ない,またこれに加えて,依然不明な点の残るその伝記の解明に意を注いだ。なお,画風と印章の整理・分類については,早くに辻惟雄氏によって試みられたものがあり,本研究には大いに資するところがあった(注1)。そこでは一つの見通しも示されている。筆者もこの辻氏の線に添って,それをできる限り徹底させることとし,また考察の対象を現所在の明らかでない過去の図録類や,売立目録に載るものにも広げることとした。ついては,そのすべての調査を終えたわけではなく,したがってまだ公表できる段階には到っていないが,ここでひとつ言えることは,印章の整理・分類が,そのまま画風に結びつくとは限らないことであり,辻氏も指摘されたように,これには複雑な事情もからんでいるとみた方がよいだろう。道安の伝記面については,早くに脇本十九郎氏による労作の論文があり,また最近では松山鉄夫氏が,東大寺大仏の修理に関する一連の研究の中で取り上げられている(注2)。これら先学の研究により,その輪郭についてはかなり確かなものとなったといえるが,しかしその一方,具体的な履歴となると知られることはごくわずかである。永禄5年(1562)の春日神社への石灯龍寄進が,これまで知られる年代の明らかな最も早い事蹟であり,以後没年である天正元年(1573)までの,たかだか十年あまりの聞にすぎない。それも大半は大仏修理に関わるものであり,とりわけその人物像を直接に伝えるものは,ほとんどないといってもよいだろう。ついては,ひとつ興味深い史料があるのでここに紹介しておきたい。それは,大休宗休(1468〜1549)の語録『見桃録』巻之二に収録される「雲外号」という道号墳である。以下にその全文を掲げる。雲外競和之山中有甲族,栴山田氏,武門閥閲,法枇金湯,不忘霊山遺嘱者乎,是故児卒論之,草木識其名実,宋之再温公耶,斉之諸田氏耶,可嘉向也,復慕教外宗,日課碧巌集,手之口之不鞍,近頃寄紙於予徴字,或人語之日宗公,蓋公之矯義,天下無大小栴之日公,不宜謹也,余改公作興之次,字之日雲外也,按大戴櫨云,東有鱗晶三百六十,龍矯之長,然則公亦魚鱗最之長,而興雲降悶,非人中龍何也,其愛化難得而識,孔云休云,不亦誼千,伯作偶,以祝遠大云。和園山河瑞気濃,出風塵表露霊Ri:t,由来不是池中物且待春雷起臥龍。天文十三龍集甲辰菊月中i幹日。668-

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