「和之山中」「山田氏,武門」と記されるのはもちろんであるが,これが道安その人である可能性を強くするのは,蔵輪寺墓碑銘ほかに,その法名として「雲外道安大居士jとあることによる。また道安には,重宗(または宗重)という名のあったことが,春日神社石灯寵寄進銘などから知られるが,ここに詳としてあげられた「宗公(興)」とは,同じ「宗」の字を用いていることにより,そこに関連性を認め得る(注3)。このような名称の一致以外,今のところこれを裏づける資料は見当らず,にわかに断定できないが,その可能性は多分にあると見倣してよいだろう。大休は,周知のように,妙心寺に三住した経歴をもっ臨済宗妙心寺派の僧である。道安がとくに興福寺に関係の深かったことは,脇本氏の論考以来よく知られるところとなっているが,禅宗との関わりについてはこれまでほとんど問題にされたことがない。しかし当時の武士一般の傾向として,これは当然予想されてしかるべきことでもあろう。文中「日に碧巌集を課す」ともあり,その心酔ぶりを示すが,道安画の中には,禅宗的題材のものが少なくないことも,これで納得が行く。またもし道安とすれば,その人物を評して,再温公や諸国氏に警えられることも,史料の性格上文飾は免れないにせよ,その人物像を窺い知る縁とはなり得ょう。天文13年(1544)9月中旬という比較的早い年記を有することも貴重である。この年大休は晩年に近い七十七歳であるが,道安とすれば,果たして何歳に当るのか。その享年が明らかでない今,これを確かめる術はないが,長男順清が天文9年(1540)に生まれていることから,おおよそは推測できるだろう。ところで,道安と禅僧との関係に目を向けるなら,策彦周良の著賛になる道安画の存在も,ひとつ興味深いものとして浮かび上がってくる。以下,この点について少しばかり立ち入って述べておきたい。道安画で賛のあるものは,その数の割りにはいたって少ないが,その中に策彦周良(1501〜79)によるものが二例ある。一つは,『東洋美術大観Jほかに掲載され,早くから知られている「山水図J(出光美術館蔵)(注4),もう一つは,福井県・個人蔵の「神農図jである。なお「神農図」については,残念ながら筆者はまだ調査の機会が得られず,ここでは写真から推察しておくしかないが,福井県の文化財にも指定されているものである。これまでの道安研究の中ではあまり取り上げられたことがない注目すべき作品と受け取られる(注5)。策彦は周知のように,天竜寺妙智院に住した臨済宗夢窓派の高僧であり,とりわけ二度の入明によって有名である(注6)。前記した大休とは親密な交流が知られることは,この際とくに注目しておいてもよいだろう。な-669-
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