おこれらいずれの賛も,策彦の語録詩文集には収録を見ず,著賛時期については明確にはできないが,書風,また「神農図jの署名に見える「謙斎」という号などから推察して,ともに策彦六十歳代以降晩年にかけてのものであることは,まず間違いないと思われる(注7)。「山水図」は,雪舟風の溌墨による作例であり,道安画にはこの種の作としてほかに,建仁寺二九五世の三江紹益(1571〜1650)賛「山水図J(頴川美術館蔵)がある。やや濡酒な趣の加わった三江賛のそれに対し,本図には楚々とした中にも,一種謹直さを秘めた確かな筆遣いが見られ,安定した画面空間を形作っている。そこには,画風の相違も認められるようであり,この二作は道安画を整理していく上でも,ひとつの目安ともなるものである。なお道安印は,両者きわめて近い形状を示すが,同タイプの異印である。一方の「神農図」については,調査を待って改めて報告することとしたいが,般若面を思わせるようなその顔立ちといい,神農図としてはかなり異色であり,個性的表現の強いものと受け取られる。また写真から推察する限り,その面貌や手足の描写には,二図の「鐘埴図」(円覚寺蔵・東京国立博物館蔵)に加え,「臨済裁松図」(東京芸術大学大学美術館蔵)にも,一脈通じる点が認められるようである。これらが,三代道安説にどうかかわっていくのかは,ほかの作品の整理・分類とも合わせ今後の課題であるが,いずれにせよ等しく策彦の賛を有することにおいて,この二点のもつ意味はきわめて重要で、ある。道安と策彦との関わりについても,先の大休と合わせ,追求してみる必要があろう。なお,これが策彦と関係があるのかどうか不明であるが,天竜寺内延慶院に「山田道安順清居士Jの墓碑があるという西村兼文『画家墳墓記』の記事も気にかかるところである。筆者はまだこれを確かめ得ず,その意味するところも定かではないが,あるいはこの辺に何か手掛かりが得られる可能性があるかもしれない。0土岐洞文美濃の守護土岐氏一族と伝えられる洞文は,武人画家とされる者の中でも,技量の点では,とりわけ抜きん出た存在と言ってよいだろう。しかしながら,伝記は全く不明であり,土岐氏といえ『土岐系図』諸本にこの名は見当たらず,また当時の文献史料の中からも,その存在は確認されていない。そもそも土岐氏とは,『本朝画史』はじめ近世に入ってからの画伝類が伝えるところで,それを裏づけるに足る確実な落款のある遺品も知られない。また画伝類の中には,土岐氏十一代頼芸(1501〜82),あるい670-
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