「山水図(細香斎図)Jは,この観点からとくに注目される作品である。詩画軸の形式をとる本図には,景初周随(1475〜1557)以下鎌倉五山僧の賛があり,別幅の景初の序文に,永正18年(1521)という年記の見えることから,洞文の活躍年代の指標としても重要視されているものである。ここに見える景初,子明紹俊(〜1536),叔悦禅惇(1449〜1535)はいずれも円覚寺歴住の僧であり,「湖湾周昔Jについては不詳であるが,永正17年,すなわち本図に景初が序文を記した前年,叔悦の円覚寺入住に際しての江湖疏に,「前禅興周岳」として子明,景初らとともに名を連ねており,これも円覚寺に所縁の僧と考えられる。この周岳を除いては,いずれも祥啓との関わりが想定される鎌倉五山僧,文筆僧であり,そこに洞文の存在を重ね合わせてみることも不可能ではない。なお景初の序文には,軸を持ち寄った人物として「越山派下輝春丈人」の名が見える。洞文との直接的な交流も予想されるこの人物については,まだこれを明らかにできないが,「越山jを別源円旨の別号室名と記した資料があり,もしこれが確かなら,「越山派jは曹洞宗宏智派をさす可能性がある。円覚寺の白雲庵は,この宏智派の中心拠点であり,宗派は違ってもその関係には密なるものがあった。なお,別源は越前の人であり,宏智派は代々越前朝倉氏が帰依したことでも知られている。「輝春jなる人物を明らかにし得ない今,これ以上憶測を重ねることはできないが,このことは,ひいては洞文と曾我派との関係にも示唆を与えるものとなる点,注目しておいてよいだろう。洞丈と東固との関係を考える資料はほかにもある。まずは「寿老人・福禄寿図」についてO本作品は,その存在は知られながらも,従来の洞文研究の中ではあまり取り上げられることのなかったものである。洞文の基準作と見倣してよい重要な一作であり,ついては筆者はすでに簡単な報告書を提出しているので,それを参照願いたい(注10)。その中でも触れたことであるが,本図には,太田資長(道濯)(1432〜86)の寄贈という寺伝が付される。本図を所蔵する群馬県館林市の茂林寺は,応仁2年(1468)'大林正通(1428〜98)を開山に請じて創建された曹洞宗寺院である。開基は,当時東上州に勢力を伸ばしていた青柳城主の赤井氏であり,大永2年(1522)には朝廷の勅願所にもなった名刺である。道濯が,主君扇谷上杉定正ともども,大林に深く帰依していたことは明らかであり,寺伝といえすぐには無視できないところがある。加えて,大林が美濃の土岐氏一族であることは,単なる偶然に過ぎないのか,これも興味のもたれるところである。ただし,もしこの寺伝に信を置き,道濯一大林を本図の伝来に672
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