結び付けるとするなら,これまで想定されている洞文の活躍時期に照らして,いささか早期の感があることは否めない(注11)。その点はさらなる検討を要するが,いずれにせよ,洞文と東国の地との何らかの関係を示唆するとは言えるであろう。もうひとつ,同様に洞文画が東国に伝わった例として,これは現存しないものの,「蘇東壌像」がある。茨城県龍ヶ崎市の金龍寺にかつて伝存していたもので,谷文晃の模本が相見香雨氏によって紹介される他,これを版刻したものが文晃の『本朝画纂』に載る(注12)。金龍寺は,もと上州太田(群馬県太田市)にあった曹洞宗寺院であり,開基は横瀬国繁,開山は通幻派の在室長端(国繁の弟)である。文明年間の創建と言われ,その後横瀬氏の移封に伴い現在地へと移っている。伝来の経緯は明らかでないが,元文3年(1738)の「金龍寺由緒・什物等書上写J(『続常陸遺文五』)には,「東坂居士像画」「鎌倉啓書記筆jと記され,新田義貞の鎌倉攻めの時の「分捕物」ともある。新田義貞云々は,むろん時代が合わず,単なる伝承と受け止めるしかないが,鎌倉,そして祥啓の名が冠せられていることは,注目してよいだろう。これも洞文と東国との関わりに,ひとつの示唆を与えるものと受け取ることができる。ここで洞文の足跡を推測してみるに,もし土岐氏とすればまずさしあたっては美濃ということになるが,これについては今回の調査でも確かな資料は得られなかった。ただ真偽のほどはさておき,同地には寺院を中心に洞文の伝承をもっ画蹟が少なからず伝存しており,この点は留意されるところである。またその画風に曾我派の影響を認め得るとするなら,先にも少し触れた越前が浮かび、上がってこよう。美濃とは国を接することはもちろん,その交流の深さを考えても充分領ける。しかし,これについても裏づけとなる新たな資料は発見できず,今は推測の域を出るものではない。そして,問題の東国であるが,上に記したことがすぐに洞文の足跡に結びつくとは言えないまでも,可能性としては残しておいてよいだ、ろう。では,美濃と越前はともかく,この東国と洞文とのつながりについてはどうとらえたらよいのだろうか。これも今後の課題であるが,ひとつ考えられることとしては,東国の美濃土岐氏一族,中でも常陸土岐氏(土岐原氏)の存在がある。周知のように,山内上杉氏被官として常陸信太荘に入部した土岐原氏は,江戸崎を拠点、に南常陸に大きな勢力を築いている。洞文が土岐氏一族であるなら,今後はこの土岐原氏をも視野に入れて探ってみる必要があるだろう。ところで,この研究を進める中で,ひとつ不安として胸を過ったことがある。それ-673
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