鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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注(1)辻惟雄「山田道安筆龍虎図扉風」『国華』第977号昭和50年2月(2) 脇本十九郎「戦国の武人画家山田道安J『画説』第10・11・12号(昭和12年),松(3) 道安の用印には,通例見られる「山田口道安J二重郭印のほか,印文不明とされ(4) 本作品の現所蔵先については,四宮美帆子氏の御教示による。なおこの策彦の賛は,洞文を,果たして本来の意味での武人画家と呼んで、よいのかどうかということである。むろんこれは,武人画家の定義そのものに関わる問題であり,とてもひとことで言えることではないが,しかし,もしその条件として余技ということを強調するのであれば,先にも記したように,洞文にはそれをはるかに超えるものが認められる。画技の確かさ,画域の広さを見る限り,専門画家と何ら変わるところがないのである。かの道安の「鐘埴図」は,同時代の絵画全体を眺め渡してみても,確かに完成度の高いものであるが,それで、もそこに余技的性格を読み取ることはさほど困難ではない。洞文にはそれがあまり認められないのである。もし単に武士出身ということであれば,いうまでもなく,同じ境遇の画家はたくさんいる。この洞文の存在は,本研究の根本にも関わる重要な問題を苧むものであり,その伝記にはとくに興味のもたれる所以である。最後に,これも今後の課題として,「江月」印についてふれておきたい。洞文画には,知られるように「洞文」印に併せ,この印を捺したものが往々にしてみられる。画伝類の中には「江月洞文」と記したものもある(注13)。今のところ印のみによって知られるいわば逸伝の画家である以上,呼び方としてはむしろこの方が正しいのかもしれない。それはともかく,この「江月」もこの画家の素性を知る重要な手掛りになること,いうまでもないだろう。この名は,禅僧の道号を中心に広く見られるところであり,目下,同時代史料をもとにいくつかその可能性を探っているが,まだこれといって明示できるものは残念ながら見出していない。(付記)筆者は本研究を他の武人画家についても広げたく思っており,当初の計画にしるした武人画の意味,その特色といった問題については今後の研究に委ねたし、。山鉄夫「東大寺大仏の永椋再興について」『美術史』第79冊(昭和45年10月)る瓢形印があるが,この縦の三文字は「雲外」と読まれる可能性がある。-674-

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