(5) 『図録福井県の文化財j(福井県教育委員会昭和55年)ほかに写真が掲載される。(6)策彦については,大石「策彦周良の画賛をめぐって十六世紀絵画史す見(その(7) とくに「神農図」の著賛時期については,策彦の印などを検討するなら,今後さ(8) 洞文を含む土岐氏の絵画に関する最近の研究としては,白水正氏「土岐氏の画系」(9) 河合正朝氏は,このことに触れ「その画風に,祥啓派ないしはその流れをくむ,(10) 山田烈・大石「群馬県中世絵画資料調査報告」『群馬県立歴史博物館調査報告書』(11) これまで洞文の活躍年代の指標とされているものには,前記した「山水図jの序について,通常と異なることから疑問を投げかけるむきもあるが,これは筆具の性質によると見てよく,似た例はほかにもある。策彦の印にも問題はない。一)(その二)」(『造形芸術学・演劇学』創刊号・第2号平成8年・平成10年)参照。らに狭められる可能性がある。一応ここでは大まかな見通しを示しておく。(『岐阜市歴史博物館研究紀要』第3号平成元年3月),同氏「土岐氏時代の絵画」(岐阜市歴史博物館『特別展一土岐氏の時代一』平成6年10月)がある。いわゆる関東水墨画の余風をうけているjと記される。同氏「武人の画家」(『別冊太陽』水墨画昭和53年)文である永正18年(1521)のほかに,「人麿図」(『国華』第792号)の紙背に書かれた次の識語がある。「此人丸信実ノ筆ヲ写ス天文四年(1535)五月十六日口三郎殿進之(花押)J。本図を紹介された島田修二郎氏は,所蔵者の識語と見倣すことも不可能ではないとされながらも,それが画の本紙背面,画家の印章の傍らに書かれていることから洞文自筆と推定されている。もし仮にこれを所蔵者のそれと見倣すなら,制作年代の下限を示すことになり,活躍年代の指標としては必ずしも効を奏さないことになる。その点,再考の余地も残されていることを一応付言しておく。同相見香雨「文晃模写の東壊像に就て」『絵画叢誌J第345号,大正5年6月同前記文晃の模写した蘇東壊像の箱書には「江月洞文座主筆jとある。その拠るところは定かでないが,もし寺伝か,もとの洞文面のそれを写したものとすれば,興味ある一資料と言える。第7号(平成8年3月)675
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