ちに彼は心情の高まりと己の過誤を覚えて思い切り泣いた。号泣は「心とあらゆる感覚が柔和になる」ので良い,とモレッリは述懐する。そして彼はあらためて礁刑のキリストとその左右の聖母と聖ヨハネ像に対し息子の魂の平穏を祈り願い一一キリストには『詩篇』とラウデ(早暁祈祷句)を唱え,マリアには十字を切りつつ賛歌『サルヴェ・レジーナ(めでたし元后)』を,聖ヨハネには『ヨハネ伝』の数節を朗請して,祈祷礼拝を終えたという。ここに登場する板絵について,審美的観点から作者やその造形価値を論じる記述は一切ない。モレッリにとってその板絵は,信仰生活に不可欠の調度品であった。ベトラルカ(1304-74)が愛蔵する聖母子像板絵に関し,宗教主題であることに加えてジオット作であるがゆえに一層礼賛すべきものだ,と述べたことは名高い。だがモレッリの時代は,フィレンツェ商人フランコ・サッケッティ(13351400)が『トレチェント・ノヴェッレ』第157話(注3)の結部で「偽聖人の絵」を描かせる信心家が多い,との苦言をなした時代でもあって,個人の信仰礼拝のため,家庭用の小規模な宗教画像がすでに氾濫していた。なお,メデイチ家の家族礼拝堂(1459年,現メデイチニリカルデイ宮内〈マギ礼拝堂〉)にみるベノッツオ・ゴッツォリ(1420頃日97)のフレスコ〈マギの行進〉は,聖墳墓十字軍を画策するフィレンツェ公会議(1459)に参じたメデイチの一族郎党と諸君主の肖像を描き,モティーフの豊かさと世俗的豪者,コジモ(13891464)とピエロ・デ・メデイチ(141669)父子の趣味を反映する(注4)ことで名高い。しかし,家族礼拝堂の構想自体は市民が家庭内で画像礼拝祈祷を行なう習慣に発するものである(注5)。ゴシック末期からルネサンス初期にかけての美術制作の興隆は,私邸に宗教画像を所有して祈祷礼拝を行なう市民の信仰生活を背景にしていたと考え得るだろう。2.板絵制作の流行と1314世紀托鉢教団における画像祈祷市民による画像礼拝祈祷の習慣がいつに始まったものか,その遠因としては,12世紀に始まる板絵制作の流行と13世紀以降の托鉢教団運動,とりわけ一般市民からなる在俗信徒会の活動が挙げられる。イタリアに始まる板絵の流行について,ゴンブリッチは要約して二つの宗教的・歴史的契機(注6)を挙げた。第ーはメンサ(聖餐台)を挟んで会衆と対峠していた司祭が,11世紀頃から変化してメンサの手前に立つこととなり(注7),聖体と聖具を置689
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