icona”( 1点のイコン)の音便略記変形から成立したことは注目すべき事実(注8)でくのみであったメンサ卓上背部の空隙を荘厳化する祭壇衝立や祭壇画に対する需要が高まったことである。第二は,1204年のラテン十字軍によってコンスタンティノープルからイタリア半島に流入した東方イコンが,高い聖障壁の少ないイタリアの聖堂空間にあって,メンサ卓上の祭壇衝立(retabulum=レタブルム)とされる傾向にあったことである。この措置は祭壇上に聖遺物を安置したレオ4世(847-855)の先例に倣うものでもあったが,同時に,稀少な東方イコンを補うための模作や新規の祭壇画制作が漸増した。イタリア語「アンコナ(ancona,anchona祭壇衝立・祭壇画)」が“unaあろう。この経緯において重要な点は,東方イコンを礼拝対象に追加しつつメンサ卓上の祭壇衝立に兼用した人々が,イコンの物神的な聖性に加えて輸入板絵としての物理性を意識し,新たな祭壇画板絵制作の可能性をいち早く直感したことである。付言になるが,13-14世紀のフィレンツェ市の聖遺物収集に関しトレクスラー(注9)は,物神的な画像崇拝にとらわれない新たな態度をトスカーナの市民が早くから示し得たことを示唆する。すなわち,フイレンツェ人は自国の輝かしい歴史的事件の記念日と祭礼日が重複する聖人を岡市の守護聖人に選び\自国に対する神の庇護を明証し対抗諸国の繁栄の可能性を減じるために聖遺物の収集・独占を進めたのであり,宗教的情熱に政治的・功利的態度を交え,売買を経てフイレンツェ市内に安置された聖遺物一一洗礼者聖ヨハネと聖女レパラータの聖遺物い,という。つまりフィレンツェ人にとって,聖遺物は篤信の対象というよりはむしろ共和国の歴史とそれに続く繁栄の証拠物品に過ぎなかったし,同様に聖画像も「板絵Jという物品として扱われ得たと推測されるのである。ボッカッチョ(1313-75)の『デカメロンj第6日第10話は,贋造の珍奇な聖遺物を元手に寄付集めを行なう修道士の才知と市民の映笑を伝える(注10)。先述のフランコ・サッケッテイの笑話主題は「コルトーナの聖ウゴリーノの遺骸」の不気味さをあげつらうことであった。名高い〈インプルネータの聖母〉のごとき聖画像崇拝(注11)は確かに存続したが,物品に対する宗教的熱狂に陥ることが少なかったからこそ,トスカーナ人は宗教美術市場を急速に肥大させ,ときに冷ややかな功利主義の眼差しで画像の氾濫を見据え得たと思われる。しかしながら,宗教画像に対する崇敬が完全に見失われたわけではない。13世紀以から新たな奇蹟請を生じたことは殆どな690
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