26),おおむねは小祭壇に安置した板絵や彫像を前にして祈祷礼拝膜想、やラウデの朗こうした礼拝用画像の私有習慣が聖職者から一般市民に普及する過程において,重要な役割を果たしたと考えられるのはフランチェスコ会第三会を先駆とする托鉢教団の在俗信徒組織,とりわけ14世紀後半から諸都市に急増した数多くの在俗信徒会(con-fraternita =兄弟会またはcompagnia二平信徒会)である。既存の教団が元来,修道士・聖職者の専門家組織であったのに対し,在俗信徒会は教団外部にある民衆の信仰生活の強化,霊的向上を促す新しい一般市民組織であった。在俗信徒市民が修道士らの画像礼拝祈祷を模倣したことは,先に挙げた在俗信徒出身の聖人の例からみても明らかだろう。とはいえ初期の在俗信徒会は緩やかな組織に過ぎず,たとえ拡大した場合でも,労働の放棄や苦行への没頭を伴う民衆の過激な信仰表明は社会的経済的混乱を招き,消滅を繰り返した一一1399年のピアンキ(白衣団)の’|戴悔行列に至るまで世紀前半に存続した在俗信徒会は会員間で病苦や困窮を相互扶助する小規模組織に留まる傾向をもった。在俗信徒会が急増・拡大したのは,過激な民衆行動が托鉢教団と教会の権威をも危うくする危険を悟った托鉢修道士たちが,穏和な信仰生活を求める中上層市民の意を汲み,同郷出身者や同業者など利害を同じくする富裕市民を集めた在俗信徒会の教導に努めた14世紀中期以降のことである。換言するならば,在俗信徒会は中上層市民の良識と自尊心が集う場として拡大・増加した。たとえばフィレンツェの「ピガッロ信徒会(Compagniad巴lBigallo) Jが貧民救済病院を設置し,「ミゼルコルデイア信徒会(Compagnia della Misercordia)」が傷病人の世話と死者の埋葬を手がけて活動を拡大するのは14世紀中期のことである。彼ら在俗信徒会員は初期資本主義社会の富裕市民でもあって,瞳罪を求める際,苦行や禁欲的修業よりもはるかに現実的かつ合理的な信仰実践として他者に対する喜捨と慈善とを励行し,眼に見える形で自らの富を活用し始めるのである(注25)。在俗信徒会は,厳密にいえば14世紀中期以降,いわば中世末期から近代初期の社会的流行現象と考えられるだろう。たとえば1410年代,20-30人の篤信のフィレンツェ市民からなる「聖ヒエロニムスの洞窟信徒会(Bucadi San Girolamo)」は,簡便な信仰修業と慈善の実践に努めた。会員は隔週毎土曜日と祝祭日前日の夕食後,小さな祈祷所(oratorio)に集い,ドメニコ会士の指導のもと,晩祷を捧げ修行(disciplina)をなす。「修行」の委細は不明だが(注694 ため,14
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