(3) フランコ・サケッティ『ルネッサンス巷談集J,杉浦明平訳,岩波文庫,1981年,(4) 本礼拝堂装飾に関し,ピエロは鑑賞眼のあるパトロンとして指揮権を発動し,壁(5) 1422年,コジモの父ジョヴァンニは教皇マルティヌス五世より私宅内祭壇設置の(6) E.H.Gombrich, The Uses of Images, Studies in the Social Function of Art and Vis (7) 典礼形式上のこの変化は,崇敬の対象たる聖体とこれを掲げ持つ司祭との混同を(8) P. Thoronton, The Italian Renaissance Interior 1400-1600, Milano, 1992, p. 264 (9) R.Trexler, op.cit., pp.57 59. pp.235 240。面上部のケルピムの位置変更を画家に命じた。G.Gaye, Carteggio inedito, 1839, I , pp. 191-92. 特権を得ていた。D.Cole Ahl, Benozzo G何zoli,New Hav巴n& London, p. 83. ual Communication, London, 1999, pp. 55 58. 厳密に回避し,司祭と会衆とが等しくキリストの来臨を願って東方を向くために生じたとみられる。によれば,この言葉の最も古い用例のひとつは1436年,フェッラーラのニッコロ・デステ(三世)財産目録の記述“anchona”であるという。同ボツカッチョ『デカメロン(中)j,柏熊達生訳,筑摩書房,1987年,pp.305-3180ω〈インプルネータの聖母〉崇拝に関してはA.Paoluci,‘11 santuario di S. Maria all’Impruneta, le vicende d巴lculto’,in fl tesoro di Santa Maria all’Impruneta, Firenze, 1987 pp. 4 22およびR.Trexler, op. cit. , pp. 63 80.この板;車会もまた13世紀末14世紀初頭のトスカーナ派の作である。同生地コルトーナでの聖女マルゲリータの祭礼は1325年以降公認されたが,かつて貴族の愛人として華美を誇った彼女について虚言を疑う意見も根強く,正式の列聖は1728年のことである。彼女とその木彫疎刑像についてはAA.VV., Mar-gherit,αda Cortona, Milano, 1988, p.197. 同アレキサンドリアの聖女カタリナは,4世紀マクセンテイウス帝時代の殉教聖女であると信じられていたが,その存在は5世紀の哲学者伝から派生して9世紀以降に蓄積した伝承説話の結実である。隠者から授かった聖母子像板絵に対するカタリナの祈りと膜想のエピソードは,1337年の匿名筆者による同聖女伝によって流布した。M.Meiss, Painting in Florence and Siena after the Black Death, Prince--697-
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