日興道相親出入惟山鳥幽深無世人王維の詩にある「独坐」,「弾琴」,あるいは「長輔」などは,いずれも典型的な文人的行為である。最後は「明月来りて相照す」という静かな明澄な世界の表現で締めくくっており,それは正に斐迫のいう「幽深にして世人無し」の境地であろう。こうした文人の姿は,「竹林七賢」のイメージにも繋がるところがある。しかし,ただ一人で月と向かい合うという点に,王維独特の禅的な心境が明らかに示されているように思われる。ここには清代の文人王土禎(1634〜1711)が評したように,「唐人の五言絶句は,往々にして禅に入り,得意忘言の妙有り。」「王維と斐迫の車問川絶句の如きは,字字が禅に入る」という境地がよく現れている(注2)。小林太市郎も「王維の魂は飛揚せんとす。斐迫の暁がそれを止む」と指摘している(注3)。一方,文人画は六朝の「準備期」を経て,盛唐になって「濫暢期Jを迎えた。「文人画は,王右丞から始まった」(注4)と言われるように,王維の文人画史における位置は重要である。画家として名声を博していたことは当時の諸書にも記されている。『旧唐書』文苑伝には「維は尤に五言詩に長じ,書画は特に其の妙に藻る。…絵者の及ぶ所には非ざるなり。J(注5)そして,宋代の『宣和画譜』に至って,王維はその画の評価によって画家として最高の地位を獲得した。王維は宋初の文人画の勃興に大きく関係したばかりではなく,明代に至っても,董其昌の文人画論ですら,単に王維の文人画の理念を代弁したものであったと言ってよいほどである。王維自身も「偶然作」六首其六に次のように詠んでいる。老来慨賦詩惟有老相随惟だ老いの相随うあり嘗代謬詞客前身応画師不能舎余習偶被世人知名字本皆是此心還不知「嘗代には詞客に謬らる,前身応に画師なるべしJとあるように,詩人であるより,日に道と相い親しめり出入するは惟だ山鳥のみ幽深にして世人無し一一一斐迫老来詩を賦するに慨うく嘗代には詞客に謬らる前身応に画師なるべし余習を舎つること能わず偶たま世人に知らる名字もと皆是なるに此の心還た知らず60
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