鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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704~ ② 19世紀のベルギーの美術をめぐる諸制度研究者:岡山大学文学部専任講師龍野有子はじめにる)のとは異なって,19世紀のベルギー美術は単一の都市を中心に展開していた訳ではない。それを象徴するのが「三年期展SalontriennaUと通称される公式展の様態であろう。その通称の通り,これは3年に一度の公募審査展であるが,ブリユツセル,アントウェルベン,ヘントの3都市の3年ごとの持ち回りで開催されていたため,実質的には毎年開催であった。例えば,世紀後半から世紀末にかけて登場する「前衛」は,公式展の美学的因襲性・権威主義性と市場独占性に対する抵抗運動として理解され得る。そうした公式展の原型にして典型がパリの官展であることは言うまでもないが,各国の公式展の様態を単純にパリの官展に準えることはできない。各国の圏内画壇における公式展の役割や,美術家の養成形態との関係,さらに国際的な市場一批評ネットワークとの連関は,それらを支える国内的・国際的な政治環境とともに,常に個別的な問題として理解される必要がある。そもそも,1830年以前には今日のベルギー連邦王国に相当する国家は存在しない。旧体制下にあっては,この地域はオーストリア・ハプスブルク帝国領とリエージュ司教大公領というこつの領有ー行政区域に分かれており,各々を構成する諸州や諸都市はさらに各々異なった制度的機構を有していた。この地域全体に初めて領土的・行政的な一体性が与えられるのは,1795年に始まるフランス併合期のことである。その後1814年のナポレオン失脚を期に,この地域はオランダ王国に併合される。1830年の国家成立はそのオランダからの分離独立によるもので,直接的な引金はフランス七月革命の刺激であった。こうして生まれた新興国家ベルギーは,世紀後半には欧州第2位の工業大国へと急成長するのだがそれを可能にしたのはナポレオン体制期からオランダ併合期にかけて蓄積されていた産業基盤であった。同様に,三年期展を初めとする画壇構造の基盤もまた,ベルギー王国の成立以前に形成され,独立革命の後も本質的な解体や再構築を被ることなく世紀末まで継承されている。そのため,ブリユツセル19世紀のフランス美術が終始首都パリを中心に展開していた(かのように語られ得19世紀の美術の歴史における公式展の役割の重要性は,改めて強調するまでもない。

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