を首都とする近代的集権体制の構築を目指す国家政府の行政方針とそれらとの関係は,常に微妙なものであり続けていた。こうした観点から,本稿では19世紀のベルギーの画壇構造を支えていた諸制度の形成と変貌の過程について,三年期展を中心に粗述することを試みる。1 .三年期展前史三年期展の創設母体は,国家的機関ではなく各都市の美術アカデミーや民営団体であり,3都市による交互開催形式が定着する1818年までは各々が独自の頻度で個別に展覧会を開催していた。これらの中で最も早く開設されたのは,ヘントの美術アカデミー(1751年創設)主催の展覧会で,第l回展はハプスブルク領時代最末期の1792年に開催され,フランス軍の侵攻に始まる政治的・社会的混乱による中断を挟んで、,1802年から1814年までは隔年の定期開催が続いている。初期のヘント展は,課題制のコンクール部門と一般公募部門とに分かれていた。16世紀以来の宮廷都市ブリユツセルや,リユペンス一派の記憶を残す宗教的・商業的中核都市アントウェルペンとは異なり,ヘントにあっては伝統的に美術家の層が薄く,歴史画に象徴されるアカデミックな造型芸術を支える社会的・文化的基盤も脆弱で、あった。美術アカデミーによるコンクール及び公募展は,そうした状況の底上げを図るべく,公衆に対する啓蒙的見地から企画されたもので,当初の計画の中心は絵画(歴史画)コンクールであった。一般公募部門はこれを盛り上げるための余興として併設されたもので,概ね200点前後からなる出品作の過半は市内及び近郊の有名無名の一般市民の作であり,学童の鉛筆素描や良家の子女の手になる刺繍や造花等,アカデミックな「美術作品」の持外に属する品々も多数出展されている。とはいえ,展覧会としての質的向上が求められなかった訳では決してなく,職業的美術家による質の高い作品をより広域から募るため,1802年には彫刻や建築の課題制コンクールが増設され,一般公募部門に対する褒賞も漸次拡充されている。結果,1808年以降の受賞は殆どの部門が他都市からの出品者に占められる。これは一面ではヘントの美術家層の薄弱さを証すものだが,この展覧会が近隣諸都市の美術家に対する吸引力を獲得していた証左でもある。事実19世紀最初の10年間においては,ヘント展は実質的にベルギー地域唯一の公募制展覧会であった。ブリユツセルとアントウェルペンの展覧会は,ヘント展の刺激によって各々1810年705
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