代初頭に開設される。ただしいずれも,美術アカデミーとは別個の民営組織「美術奨励協会Societed’encouragement des beaux-arts」の運営である。アントウェルペンでは,ベルギー地域で最も早い1663年に美術アカデミーが設立されているが,1788年創設の美術奨励協会は,人文主義的・古典主義的な芸術理念の宣揚を本質的な存在意義とするアカデミーとは異なり,もっぱら経済的・社会的次元の諸問題への現実的対応を目的としていた。いわば,1773年のマリア=テレジア勅令により廃止された聖ルカ組合が果していた美術家の相互扶助機能と,富裕な市民層による美術家支援活動の双方を集約するような組織であったが,1810年代には公募展の定期開催を専門業務とする機関となる。このことは,1810年に設立されたブリュッセルの美術奨励協会のあり方と関係している。こちらは当初から公募展運営の専従組織として,市長ユルセル公の肝煎で創設されたもので,ヘント展の運営委員であったブリユッセル科学文芸アカデミー総長ファン・フルテンが実務を指揮している。こうした布陣で開設されたブリユツセル展は,既に偶数年開催が定着していたへント展の先行性を尊重して奇数年開催とし,同年重複開催による競合を避けつつも,質量双方においてヘント展を凌ぐ,汎ベルギー規模の大公募展の実現を目指していた。事実ブリュッセル展は,1811年の第l回展からベルギー全域に出品を募り,課題制の歴史画部門に加え風景画,彫刻,建築,素描の各部門に褒賞制度を設置して400点を超える作品を集め,大きな反響を呼ぶ。これと相前後して,リエージ、ユやメヘレンでも隔年開催の定期展が始まるが,質量ともにブリュツセル展に匹敵するものではなかった。しかしブリュッセルで第2回展が聞かれた1813年には,アントウェルベンが新たに公募展の定期開催事業に参入し,ブリュッセル展への対抗姿勢を示す。これを受けて老舗ヘント展は,1814年以後は3年に一度の開催へと移行して両者の調停を図り,アントウェルペン展もこれに同調するが,ブリユツセル側は逆に1815年から4年間,連続開催を挙行する。こうした混戦状態に介入して三年期展体制を定着させたのは,オランダ王国の美術行政方針であった。それはまた,その後のベルギー画壇のあり方を大きく決定づけるものでもあった。706
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