鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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2.オランダの美術行政と三年期展体制の定着フランス併合期には,政治的にも文化的にもブリュッセルがベルギー全域を統括する単一の中核都市と位置づけられていた。これに対しオランダ国王ヴイレム一世は,本国における行政府デン・ハーグと首都アムステルダムのアナロジーをベルギー地域にも適用し,ブリユッセルをデン・ハーグと同格の第二首府と定めながらも,文化行政においてはむしろアントウェルベンへの挺入れを図ることで,ナポレオン統治下に親フランス色を強めていた前者を牽制し,後者に言わば「芸術上の首都」の地位を授けている。これを端的に示すのが,国王勅令によって1817年に開設された王立造形芸術アカデミー(KoninklijkeAcademie van B巴巴ldendeKunsten)とローマ賞コンクールである。前者は王国内の美術家養成機関の頂点に位するもので,アムステルダムとアントウェルベンの二ヶ所に設置された。後者はフランスのローマ賞制度に倣ったものだが,二つの王立造形芸術アカデミーによる隔年交互開催と定められ,アントウェルペンでは1819年に最初のコンクールが実施されている(このコンクールは独立革命後もアントウェルベンの美術アカデミーにより継続され,世紀末まで一定の権威を保ち続ける)。こうしてオランダ併合期には,国家的政策の一環としてアントウェルベンの美術アカデミーの機能的・権威的な強化が行われたのに対して,ブリュッセルの美術アカデミー(1711年創設)は,ベルギー地域の他都市の機関と同様,国家からは実質的に捨て置かれている。その一方で,両都市の美術奨励協会はともに「王立royal巴」の称号を得ており,ブリユツセル展は1818年から,アントウェルベン展は1819年から,各々の王立美術奨励協会の主催となる。へント展は美術アカデミー主催のままであったが,開催資金の援助や出品作の買上等の助成は前二者とほぼ同等に行われている。こうして,これら3都市の美術展の対等性が保証されると同時に,他の展覧会に対する優越性と特権性が確立される。とはいえ,1800年代にはその単独先行性ゆえに鳥無き里の編幅よろしき吸引力と権威を誇っていたヘント展は,北部ベルギー地域の2大都市の展覧会との同列化により却って相対的な水準の低さが露わになり,1820年代には次第に権威を失ってゆく。オランダ併合期最後の三年期展は,1830年8月のブリユツセル展となる。この時出品されたアントウェルベンの画家ワッベール(1803-74)の〈レイデン市長ピーテル・-707-

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