ファン・デル・ヴェルフの挺身〉(ユトレヒト美術館)は,16世紀末の対スペイン戦争に取材したロマン主義的・愛国主義的主題により観衆の熱狂的支持を集める。それは独立革命前夜の政治的熱狂と正確に呼応していた。同月下旬,ブリユツセルでの騒擾事件を皮切りに,ベルギー全域で独立要求を掲げる暴動が連鎖的に発生し,10月にはブリュッセルで暫定独立政府が樹立される。しかしベルギー領内のオランダ軍の完全撤退は1832年12月末を待たねばならない。その最後の砦はアントウェルペン要塞であった。3.国家草創期における「首都」ブリユツセルの再確立と三年期展独立革命後の三年期展の本格的再開は1833年のブリユツセル展からとなる。同時にこの年から,ブリユツセル展は王立美術奨励協会を離れて国家政府の主催となり,その都度発布される国王勅令で会期等の基本方針が定められ,内務大臣の任命する委員による運営委員会が審査を含む実務に当たる形となる。またこの年から1848年までは「国民美術展Expositionnationale des Beaux-Arts」を正式名称としている。これに対してアントウェルベン展は,独立後も従来通り王立美術奨励協会の運営であり,ヘント展も市の美術アカデミー主催のままであった。この時国王及び政府は,ブリユッセルを国民国家の中核たる首都として再定義し,その国内的な威信を再確立すべく,ブリユツセル展のみを国家政府主催の官営展として特権化し,就中「芸術上の首都」アントウェルベンとの積極的な差別化を図ろうとしていた。その結果,国家政府の威信を賭けて聞かれるブリュッセル展と,民営の幹侍を以て開催されるアントウェルペン展との間には新たな対抗意識が生じ,これが各々の質的向上を目指す動因となってゆく。これに対してヘント展は,既に前二者の生産的な競争関係から脱落しており,その凋落は独立革命後に一層加速する。創設当初の中心であった課題制コンクールは,ローマ賞コンクールとの競合に破れて存在意義を失い,1841年を最後に廃止となる。残る一般公募部門も他の二都市の残品処分場といった観を呈し,殊に1850年展は質量ともに甚だしく低調であった。これが主催者側に抜本的な運営改革の必要を痛感させた結果,1853年には美術アカデミーによる運営を廃し,アントウェルベンに倣って新たに創設された専従組織「王立ヘント美術奨励協会」による新規巻き返しが開始される。しかし世紀末に至るまで他の2都市との格差が完全に解消されることはなかった。一708-
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