4.国際化と大規模化:国際競争への参入と圏内競争の質的変化ヘント展改革に先立つ1851年,ブリユツセル展は正式名称を「総合美術展Expositiongenerale des Beaux-ArtsJと改め,国外作家の積極的招致に乗り出す。ロンドンでの万博創始と同じ年,ベルギーの国家政府主催の公募展は,従来の「国民美術展」即ち内国展から国際展へと方針転換を図ろうとしていた。ブリユツセル展に限らず,三年期展にはオランダ併合期以来しばしば近隣諸国の美術家が作品を送っていたが,最も多いのは旧同国たるオランダ,次いでドイツからの出品であった。そのため,というべきであろう,1851年のブリュッセル展改革に際しては,特にフランス在住作家の招致に重点が置かれる。この時ベルギー政府及び国王は,周辺諸国の美術動向を可能な限り満遍なく紹介することで国内作家に刺激を与えるとともに,自国の官営展の吸引力と影響力を国外にも拡張することで,対外的な国威発揚をも狙っていた。実際,ブリユツセル展はこれ以後急速に周辺各国への吸引力を高め,1860年展は文字通り国際展の様相を呈する。他方,国際化による大規模化と観客動員力の増強は,それ自体が三年期展相互の競争の焦点となってゆく。1861年のアントウェルベン展に際しては,前年のブリユツセル展の盛況に対抗して国外にも広く出品を募るとともに,市を挙げて「芸術上の首都」を喧伝すべく3日間の大規模な芸術祭を催し,国内外からの大量集客を図っている。ヘント展の起死回生策の中心も,やはり国外作家の招致であった。1859年展の出品者数は502名(国内360名/国外142名),出品点数は638点であったが,1880年には980名(国内450名/国タ}530名)1431,点と,規模の拡大とともに出品者数の内外比が逆転するまでになる。こうして世紀第3四半期,三年期展全体の大規模化と国際化に伴って,新たな議論が浮上する。即ち,[ベルギー美術」なるものの固有性もしくは自己同一性をいかに確保もしくは獲得するかである。無論その焦点はフランス美術との関係であったが,1851年のブリユツセル展改革の時点の美術行政側には,オランダやドイツの美術に比べてフランスの美術は国内に十分に紹介されていないとの判断があった。しかし1860年には,既にその過大な影響を危倶する論評が目立ち,ブリュッセル展側もこれ以後はフランス在住作家の優待策を後退させる。この10年間に状況は決定的に変わりつつあった。それは,白仏両国の美術行政側それぞれの思惑と,これに対する両国の美術家の反応の,微妙なすれ違いを伴った相互作用の結果であった。709
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