鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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ウiハU5.フランス第二帝政期の官展政策と三年期展フランス側では当初,ブリュッセル展の拡大化政策が将来的にはパリの官展の地位を脅かすのではとの懸念さえ噴かれていた。他方,第二帝政期のパリの官展は,1848年の二月革命に伴う審査の「民主化」による混乱を収拾し,改めて出品作の質的向上を図るべく,1853年から隔年開催となり,1857年にはアカデミー会員による審査制が復活する。こうして保守反動的に厳格さを強めていたパリの官展に比べれば,ブリュッセル展は入選基準が遥かに緩やかであった上,1860年まではフランス在住作家の出品を歓迎していた。実際,同年のブリュッセル展の活況の最大要因は,パリの官展の非開催年に当たったため,フランス在住作家が大挙して作品を送り込んだことにあった。これが他2都市の国外作家誘致策を一層活性化させたことは上述の通りだが,結果的に三年期展は,パリの官展への入選や定着が困難なフランス在住作家の作品が大量に流れ込む場となり,その展評には「パリなら半分(または四分の三)が落選ものJとの決まり文句が毎回のように登場することとなる。こうした形で押し寄せてくるフランス美術の影響に対し,今度はベルギー側が危機感を抱き始める。しかしそこには,単純な国粋主義的理由のみならず,国内画壇内部の守旧派と革新派の対立も介在していた。正確に言えば,1851年のフランス在住作家誘致策に乗ってクールベがブリユッセル展に出品した〈石割人夫〉がパリのレアリスム論争をベルギーに飛ぴ火させ国内においてもレアリスムを標梼する風俗画家群が急激に撞頭し,自然主義風景画家群との連携によって歴史画至上主義的な守旧派との対決姿勢を強めつつあったことが,保守陣営の危機感を刺激していたのである。つまり,国内的な保革対立をめぐる議論がフランス人画家によってもたらされたレアリスムの是非をめぐる論争と重なっていたためここにフランス美術の影響一般の是非をめぐる議論が交差していたと言ってよい。後年,印象主義及び新印象主義の是非をめぐる議論でも繰り返されるように,19世紀後半のベルギーにあっては,何らかの革新的傾向の是非をめぐる議論は,しばしばパリの動向への追従の是非をめぐる議論と交差している。しかし後者の対立を,疑似的な普遍性を志向する国際主義と,自らの特殊性に立て龍ろうとする国粋主義または地方主義の対立と読み替えるならば,それはブリュッセル対アントウェルベンという対立軸とも重なりあう。これを両都市の文化的・政治的風土一般に還元するのは容易であるが,世紀前半から後半にかけての保革の対立と逆転のダイナミズムにおいては,

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