鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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ウt6.美術家養成機関と「前衛」の形成両都市の美術アカデミーの機能的・権威的格差も大きく作用している。オランダ併合期以来,ベルギー随一の美術家養成機関として権威を誇っていたのはアントウェルペンの美術アカデミーであった。実際,独立革命前夜から国家草創期にかけて愛国的・ロマン主義的思潮を体現する記念碑的な絵画作品を生み出し,ベルギー画壇の保守本流を形成していったのは,ワッベール,レイス(1815-69),デ・ケイサー(181387)を筆頭とする狭義のアントウェルベン派のみならず,後に活動拠点を首都に移したウィールツ(1806-65)やガレ(1810-87)らを含め,大多数がこの地で学んだ経験を持つ歴史画家である。対するブリュッセルの美術アカデミーはオランダ併合期以来の構造的な人材難から,独立革命直後に院長に就任したナヴェズ(1787-1869)が1859年に引退するまで,この画家個人の指導力に全面的に依存していた。ダヴイッド流の新古典主義者ナヴ、エズは,ロマン主義者ワツベールとの比較において,既に1830年のブリュッセル展の時点で旧套と評されていたが,国際主義的な普遍性志向をその本質の一部とする古典主義を奉ずるが故に,アントウェルベン派の地方主義的傾向には批判的であり続け,門下生には積極的に国外とりわけパリに学ぶことを勧めている。そうした教育方針は,画壇的保守本流を形成していた地方主義的アカデミスムに対抗する「前衛jの第一世代が,アントウェルペンではなくブリュッセルで,就中パリからの刺激を挺子に形成されてゆくのに,少なくとも間接的には寄与していた。とはいえ,ナヴェズの教育理念の守旧性は否定すべくもない。しかも,複数の画家が歴史画教育に携わっていたアントウェルペンとは異なり,首都の美術アカデミーで学ぶ画学生にはナヴェズ以外の歴史画家に師事する選択肢は存在しないに等しかった。こうした閉塞的な状況の中,ナヴェズ流の教育に不満を持つ一群の画学生は必然、的に同志的結束を強め,1846年には「聖ルカ工房AtelierSaint Luc」を共同開設する。これは純然たる交流と研鎮の場であり,集団的示威活動を伴う運動体ではなかったが,世紀第3四半期の三年期展を揺るがし続けたレアリスム論争の火付け役はこの工房の出身者たちであり,やがて彼らがベルギーにおける最初の前衛芸術団体「自由美術協会Societelibre des Beaux-Arts」(1868-72/75)の中核となってゆく。「自由美術協会」は,レアリスム擁護の論陣の援護射撃を得てゲリラ的に数回の自主

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