運営展を聞いているものの,この会の美術家たちは基本的には三年期展を最重要拠点と見なしており,1872年のブリユツセル展で「レアリスムの勝利」の兆しが表れ始めると同時にその活動も終息する。しかし,美学的・政治的な先鋭性を誇示する党派的姿勢と散発的な自主運営展活動は,それを支える人脈ごと,後継団体「踊LaChrysalideJ (1875-81)に継承される。他方,ナヴ、ェズ辞任後の首都の美術アカデミーは,有力な指導者の不在から運営自体に著しい混乱を来たし,このアカデミー出身の若手美術家は三年期展への定着に未曾有の困難を見ることになる。これに対する自衛的救済措置として,この美術アカデミーの同窓会が若手に作品発表の場を与えるための自主運営展組織「飛躍L’Essor」(1876 91)を創設し,公式展との差別化を図るべくレアリスムの旗印を掲げる。これに反発した会内保守派は「芸術連合Uniondes Arts」(1876-85)を結成して離脱するが,「前衛」としての旗|織を鮮明にする「嫡」に比べれば,「飛躍」は美学的にも政治的にも遥かに微温的で,むしろ通俗志向が強かった。そのため,後に「踊j派に刺激された若手不満分子が集団的に脱退して「二十人会LesXX」(1883-93)を創設し,国外就中パリの前衛系人脈との連携を通じて世紀末の国際的前衛ネットワークの形成に参与してゆくことになる。こうした経緯から,前衛至上主義的言説にあっては「飛躍」の保守性が強調されるのが常であり,その展覧会は時に悪役の代名詞たる公式展にすら準えられる。しかしこのことは逆に,世紀第4四半期に三年期展の吸引力と権威が相対化されてゆく過程で「飛躍」展が果した画期的な役割をも暗示している。7.美術展の多様化と三年期展の相対化先鋭な党派的理念の主張を重視するがゆえにゲリラ的存在に留まり続けた「自由美術協会jや「踊」とは異なり三年期展から排除された若手の救済を目的とする「飛躍」は,三年期展に匹敵しうる市場的訴求力を備えた展覧会の実現自体を優先していた。実際「飛躍」展は,初回から大量の観客動員に成功し,多くの画商や蒐集家のみならず,国王による作品購入をさえ取り付ける。こうした興行的成功を元手に,「飛躍」は16年間にわたって年次展を継続し,首都では3年に一度しか開催されない上に若手にとっては些か狭き門となっていた三年期展に代わる極めて重宝な画壇参入の場を提供し続ける。その意味ではこの間の首都の若手美術家にとって「飛躍」展は正し712
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