鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
724/763

く準公式展であった。しかし,首都のポスト・レアリスム世代の三年期展離れを定着させたのも,1880年代に入って「二十人会Jやアントウェルペンの「我能う限りAlsIk KanJ (1883)を始めとする自主運営展組織の相次ぐ結成を促したのも,「飛躍J展の興行的成功であった。これと平行して,首都では「ベルギー水彩画家協会Societeb巴lgedes AquarellistesJ (1856年創設)等による媒体特化型の展覧会や,「美術文芸協会CercleArtistique et Lit-teraire J ( 184 7年創設)等の組織や商業画廊の企画による個展や数人規模の集団展など,多様な形態の美術展が日常化しつつあり,画壇参入の機会や形態も多様化しつつあった。他方,国際市場への進出を狙う中堅以上の美術家の問では,世紀末にかけて各国各地で開催頻度が高まる万博(1885年と1894年にはアントウェルペン,1897年にはブリユツセルでも開催)や,国外の各種展覧会への出品を三年期展に優先する傾向が強まる。その結果1890年代に入る頃には,三年期展はもはや新進の登竜門としても中堅重鎮の優品を結集する場としても十分に機能しない,千数百点の規模を誇るのみの存在と見なされ始める。こうした認識は三年期展の運営陣にさえ共有されていた。殊に官営展であるブリユツセル展関係者の間では,官営事業の宿命たる国家権威主義が却って優れた美術家を遠ざけ,展覧会の無意味な肥大と質的低下を促しているとして,民営化も提案されている。しかし首都の三年期展はそのまま継続され,その運営委員長を務めていた上院議員ユルセル公(ブリユツセル展の創始者の孫)の主導下に創設された民営団体「美術協会Societedes Beaux-ArtsJが,三年期展とは別に,1894年から毎年5月に出品者指名制の二,三百点規模の展覧会を開催し始める。これは必然、的に画壇的評価を獲得済みの美術家による保守的傾向の展覧会となり,前衛系の美術家や批評家の批判の的となるが,逆に信頼性の高い美術展として長く権威を保つ(通称「春季展Salonde Prin-tempsJ)。一方,他2都市の三年期展は,ベルギーを代表する展覧会としての威信を賭けて国際化を図ってきた実績はあれ,地方都市を基盤とする民営展としての性質上,馴合い的な閉鎖性を帯びた地方面壇展的性格を払拭することは困難で、あった。そのため1880年代以後,ブルッヘ,メヘレン,リエージュ,モンス,ナミュール等,各地で民営組織による美術展が増加し,規模と質の向上を競い始めると,それらとの差別化を図る必要にも迫られ始める。こうした中,ヘント展は1895年に前衛系の人脈をも取り込ん

元のページ  ../index.html#724

このブックを見る