で工芸部門を新設し,大芸術中心主義からの脱却姿勢を打ち出す。それは,地方主義的アカデミスムの牙城アントウェルベンとは異なり,地元に分厚い画家層を抱え込んでいないヘントならではの刷新策であった。こうして世紀転換期にかけて,単純な保革の二元論ではもはや把握不能な形で交錯する様々な美学的・政治的立場を反映して,公式展としての三年期展の公式性の根拠自体が次第に暖味になってゆく中,三年期展は多様な美術展の中の(一つではなく)三つへと徐々に相対化されながらも,それぞれの生き残りを賭けた模索の中で,新たな世紀を迎える。おわりに19世紀のベルギー美術は単一の軸を中心に展開していた訳ではない。それを象徴するのが3都市の交互開催による三年期展システムであった。それらは総称的に「公式展jと呼び得るものではあったにせよ,決して一枚岩ではなかった。殊に,囲内全域に対する吸引力や影響力という次元での実質的機能と,国家の後楯という次元の権威性とのギャップは,展覧会それ自体の質を保証する価値基準をめぐる議論と相まって,しばしば3者聞に緊張に満ちた対抗関係をもたらしていた。そうしたことは,ベルギーという近代国家の枠組みによって保証されるはずの「ベルギー美術」という自己同一性を,あるいはそれが成立する以前から,予め無効にしていたかもしれない。しかし,19世紀のベルギーのそうした美術状況は,国民国家という近代的虚構の虚構性そのものが組上に上がっている今日,そうした虚構性に基づく閉鎖的かつ一枚岩的な一国美術史の発想自体を問い直してゆく上で,少なからず重要な事例を示しているのではないだろうか。714
元のページ ../index.html#725