詩意図の様式的変遷を見て来た。三中・日・韓の「竹里館」詩意図の対照次に,18世紀における中日韓の代表的な文人画家の「竹里館j詩意図を比較対照して考察したい。詩意図の主な要素についての地域的比較は〔表2〕に示した通りである。中国における文人画は明,清時代に入ると,元代の成熟期を経て最も充実した時代を迎える。十八世紀の清初における「竹里館」詩意図の発展と変化は既に述べた通りである。1.日本の池大雅「竹里館図」〔図6〕日本の江戸時代は,詩壇においては王維を崇拝する傾向が見られる。広瀬淡窓(1782〜1856)が『淡窓詩話』に「古今景を写すの妙は,少陵摩詰の二家を最とす」として杜甫と王維と並べて崇拝したことを見ても,詩壇における王維の影響の大きさが窺われる(注13)。画壇においても前述のように『唐詩画譜』を何度も復刻したことによって,王維の「竹里館」詩意図は広く受け入れられていたと考えられる。日本の復刻本・銅版本「察元勲竹里館図jは良質の復刻ではないが,中国の文化の伝播という点に関しては大きな役割を果したと言えよう。ここで中日の比較の一例として,日本文人画の大成者,江戸中期の池大雅(1723〜1776)をとりあげたい。池大雅は姓は池野,名は勤,無名。字は公敏,貸成。号は大雅,霞樵などと称した。画家,書家である大雅は当時,舶載の木版画譜類を通して中国の南宗画を独学し,更に日本の伝統絵画や西洋画の表現法をも加えて,独自の新鮮な画風を形成した。大雅が一生王維に憧れたことは,その題画詩「題遊山翫水図」(注14)を見ても明らかである。雲煙払剣藤青緑漬呉綾要会無声趣強参王右丞「強いて王右丞に参ず」と書き記したことは「竹里館」詩意図を三例残していることにも現れている。現存する三例とは「竹里館詩意図」,「竹裏弾琴図j,「竹里館図」である。ここでは,大雅の「竹里館図」と『唐詩画譜』の「竹里館図」〔図3〕を比較して雲煙刻藤を払い青緑呉綾を漬す無声の趣を会せんと要して強いて王右丞に参ず~ 64
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