鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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折しもプラドでは,ボルゲーゼ絵画館の〈馬丁の聖母〉を代表とするカラヴアツジョ約20点の特別展があり,ベラスケスとの大きな距離というか,両画家の資質,体質の根源的な違いが明確になったように思う。バロックの革命児と称されるものの,イタリアならで、はの古典的かつ優美な造形に酔った報告者の眼には,翌日セピーリャで見たベラスケスはあまりにも地上的,即物的なリアリズム独特の哲学があり,カラヴアツジョの影響云々をはるかに超えた完全に別種のヴィジョンと映ったのである。そして,こうした印象を裏付けてくれたのがシンポジウムや同展図録(注3)で提起された諸問題,なかでも画家の出自に関する新事実,その家庭をめぐるブルジョワ的で教養豊かな知的環境である。ベラスケスの名を画家として不朽たらしめているのは絵画史上の傑作〈ラス・メニーナス(旧称,フェリベ四世の家族)〉をはじめ,〈酔っ払いたち(バッカスの勝利)〉や〈槍(ブレダの開城)〉,〈鏡のヴィーナス〉や〈織女たち(アラクネの寓話)〉といった構想、画はもとより,王侯貴族,媛人や道化師を題材とした一連の宮廷肖像にもその理由が求められるだろう。いずれも宮廷入りを果たしてからの作品である。しかしこれらの作品に流れる,実証主義と合理的精神,知的かつ質朴な価値観,また身分や階層,いわば,封建的ヒエラルキーに囚われぬリベラルで近代的な人間観は何に由来するのであろうか。今回のシンポジウムで新たな光を投げかけたのが,これまで謎の多かった初期セピーリャ時代の活動とその環境に対してであった。「ベラスケスはイダルゴ(郷土)ではなかった。」のみならず,改宗ユダヤ教徒の家系に属する可能性すら明らかにされたのである。報告者自身も,その可能性はベラスケス関係の原資料を読み進めるうちに抱き続けてきたものだが(注4),これほど明確に断定されたことはベラスケス研究の新段階,ひいてはベラスケス像の変転を示唆しているだろう。哲学者オルテガが樹立した『ベラスケス論J(注5)以来,没落貴族の名門の出と信じられ,「汝貴族たるべし」の天啓のもとに,廷臣,そして,宮廷画家という2足の草鮭で61年の人生を平穏無事に歩き通したかに表面的には見えるかもしれない。しかし実は,その奥には一平民からスペイン最高位の貴族,この大画家,その奥にはサンテイアゴの騎士に向けての壮絶な闘いと冷徹な熱情,自らの手で封印してしまったドラマが隠されていたのである。完壁なまでの,しかし何ら難しさを感じさせない絵を平然と描いて宮廷画家の職務をこなすかたわら,王の私室取次係から晩年の王宮配室長(舎営長)-745-

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