鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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に至るまで,芸術とはおよそ無縁な雑事に忙殺されるじつに散文的な日々を忍耐強く,寡黙に送らねばならなかった。しかし,この異様なまでの沈黙と忍耐の生涯は,そうした人生最大の目標実現に向けての道であったのではなかろうか。彼にとって唯一の救いというか,その武器は右に並ぶ者がいない絵画の芸と技であった。そして,唯一国王フェリベ四世を味方として,このバロックの宮廷社会で画家兼廷臣デイエゴ・ベラスケス・デ・シルパは疑惑と羨望,倦怠と堕落を敵に生きねばならなかった。当然そこでは,エリオットが報告したように(注6)ブリユツセルのリユベンス,ロンドンのヴァン・ダイク以上に大きな車L際があったであろうし,平民ベラスケスとしては頑な沈黙,周囲と距離をおく態度で我が身を防御するしか生き残る道はなかったはずである。スペインではルネサンス以降,改宗ユダヤ人の知性が系譜として存在する。例えば,人文主義者ピーベスや「セレスティーナ」の作家ローハス,ピカレスク小説の書き手として知られるマテオ・アレマン(断言できないが)等が直ぐに思い浮かぶだろう。斬新でリベラル,功利的かつ実証的な彼らの思想、や作品はベラスケスにも通底しようし,さもなくば従来の権威あるジャンルをはるかに逸脱した初期の“ボデゴン”とか,ピッカロ(悪漢)にも連なる接人とか道化のリアルで,しかし,厳粛な存在感のある肖像も生まれなかったであろう。ただベラスケスの場合,スペインを代表する国民的画家というだけでなく,彼の血統がその娘フランシスカを通して,ほんの一部とはいえ,レイナ王妃,さらにフェリペ皇太子へ,と今日のスペイン王室に流れ込んでいる事実(注7)を考え合わせれば,出自の真相をそう声高に宣することも憧れるのであろう。このベラスケス改宗ユダヤ人説と関連する重要なもう1つの新発見は,画家の父ファン・ロドリゲスの職業や経済状態,セピーリャでの強力な人間関係に関してである(注8)。その家庭は従来信じられてきたように,決して貧しくはなかったのだ。父親は地元でも有力な公証人で,法廷秘書官も務める程であり,宗教界ともつながりがあった。市内にいくつか貸家を持ち,裕福な有産階級に属し,息子デイエゴに優れた教育と知的環境を授けることが出来たのである。パチェーコの工房への入門もそうした境遇の延長線上に位置付けることが出来ょう。国際都市セピーリャは16世紀から17世紀に入って,中南米貿易が斜陽に転じ始めたけれども,イタリアやフランドルから油絵や版画類,古典から最新の科学書に至る書746

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