鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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注( 1) 宋・蘇戟『東披題政』巻五「書摩詰『藍田煙雨図J」『増補津逮秘書』中文出版社,1980合士市口(2) 清・王土禎『帯経堂詩話』第一冊巻三,広文書局,1971年,(2頁,10頁)(3) 小林太市郎・原田憲雄『漢詩大系10・王維J集英社,1964年,(307頁)(4) 明・董其昌『画禅室随筆』巻二「画源J『筆記小説大観』第十二冊,江蘇省江陵古禎幽筆坐噛図」や『唐詩画譜Jの「竹里館図」などとは,はっきり違っている。このように,18世紀の日本や韓国では,登場人物の数や明月の描写のあり方に変化を見せている。しかし,中国ではあくまで詩語の内容には手を加えることなく,登場人物を入れ替えることによって変化を見せたが,日本や韓国では詩語の内容まで変化させている点で,やはり大きな違いがあると考えられる。中国のほうでは,変容の余地は人物に託すしかなかったのであろうが,日本や韓国のほうでは詩語に対する理解の問題ではなく,漢詩というものに対して中国ほど厳しく定則を守ることにこだわりを感じなかったからであろうか。或は中国の文物をそのまま受け入れることに一種の抵抗,反発があったからであろうか。いずれにしても,「竹里館」詩意図を描くこと自体において,中国,日本,韓国の文人の心は共通していたが,それぞれ民族の習慣や画家の個性などによって受容のあり方が違い,「竹里館」詩意図の様式に多様な変容が形成されたことが窺われる。「竹里館j詩意図が時代を超え,或は国境を越えて広く受け入れられたのは,「竹里館」詩の中に,竹林と明月という文人的気分に合致した環境で独坐や弾琴,或は長噛という典型的な文人的行為が詠いこまれていることが大きく作用しているからに違いない。それにも拘らず,それらの文人的要素そのものすら,時代により,国によりさまざまの変容を加えてきた様相を考察することを通じて,文人画の発展の一つの断面をさらに照射し得るであろう。原文:味摩詰之詩,詩中有画,味摩詰之画,画中有詩。原文:唐人五言絶句,往々入禅,有得意忘言之妙。如王・斐網川絶句,字字入禅…。年66

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