られるように,山水面は青緑山水として描かれた。これに対して,水墨の山水画は文人的な美術と言えよう。金代の岩山寺は時代的に,検林窟第3窟と最も接近する例である(注4)。しかし,岩山寺の壁画の山水背景はほとんど青緑山水である。それに対する,検林窟第3窟の山水画は確かに水墨山水画で、ある。これは,文人的な山水画法からの影響であり,描いた人物も文人出身の画家であると推理できる。米氏山水風な空気透視を表現する雲山も,この文人的な思想表現だと思われる。そして,山の中に,茅屋,草舎等,田園隠士を表現する画面も,同じく文人的な美意識である。唐宋以来の敦埠壁画の山水風景に描かれた建築物は経典に出でくる説話に関する城や寺院,草庵など,ほとんど仏教説話に関係するものである。ところが,この壁画に描かれた草舎は,仏教からの出典ではなく宋元時代文人山水画によく見られる高士或いは隠士の宅だろうと考えられる。南宋以後,小景山水の表現は流行していた。小景というのは,画面が小さくだけではなく,山水の一部,或いは樹木,石や丘をモチーフとして表現するものである。画面は石や樹木を盆栽のように自由に配置する。あまり広大な景色ではなく,風景より文人的な美意識と思想、をあらわすことが優先される。北宋の末頃から南宋にかけて,このような小景は流行していた。越令穣などの画家は「小景画」の名人として有名になった。このような文人意識に満ちた小景表現は検林窟第3窟壁画にも多く描かれた。文殊変山水の下部,海の岸に,二つの石が描かれ,そのそばに,二本の木が表されている〔図15〕。このような広い海岸にことさら小さく石と木を描くのは,山水全体に対して,調和しないかもしれないが,文人的な淡泊の境地を想い起こさせる。ここから見れば,画人の文人的な美意識を強調したと考えられる。以上の分析により,撒林窟第3窟の山水画は五代,北宋の華北山水画の伝統を継承しながら,南宋以降の新たな山水画風を強く示している。南宋風の小景山水と北宋的な大画面山水構成とを組み合わせたので,多少不自然な感じがある。仏教壁画として,ほかに例がない山水風景画と言えよう。敦埋壁画だけではなく,中国壁画にも極めて珍しい水墨山水画資料で、ある。ここで,問題になるのは,どうして仏教壁画にこんな文人意識が溢れた山水図を表現したのか。このような中原風あるいは江南風の山水画描法はいつ,どのように北西地域の梅林窟に伝えられたのか。77
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