鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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第3窟の南道の両側にモンゴル族の服を着ている供養者の姿が見られる。さらに,1366年頃巡礼者が書いた落書と分かる。これは供養者と関係がない。これらの供養者五検林窟第3窟時代について検林窟第3窟の造営時代について,今まで,西夏時代,元時代二つの説がある。1 西夏説敦埋研究院の段文傑,劉玉権諸先生の論文及び塞照亮氏の「梅林窟,西千仏洞内容総録」がこの説を主張する(注5)。北京大学の宿白氏は,壁画の塔の形状を研究し,西夏時代説の根拠と認定した(注6)。しかし,宿氏の同論文は同じ塔が元時代にもあったと結論されている。もう一つの理由は,隣の第2窟に西夏民族の服を着ている供養者があること,それで第2窟は西夏時代と認められる。第2窟と第3窟の壁画様式は共通することが多かったので,第3窟と第2窟いずれも西夏時代に造営したと考えている。しかし,実際には元代に入っても,西夏族の人たちは依然として河西地域に住んでいた,西夏文字もそのまま使われていると歴史学者の向達氏が指摘した(注7)。この説は,五十年代中国の考古学者向達氏の「莫高,検林二窟雑考」という文章に述べられていた。最近では,黄時鑑「中国焼酒の初め及び中国の蒸館器」に橘林窟第3窟の造酒図について,科学史的な分析から,この壁画に描かれた蒸館器は元時代以後のものだと結論する(注8)。元至正25〜26年(1365〜1366)の題記文字もある。題記文字の内容によると,1365〜は窟内の壁画より,時代がやや遅い。確かに,敦t皇石窟には,後代の補修者の姿を描いた例が少なくないが,しかし,補修する時期は必ずしも次の時代と言うわけではな\;、。今残っている遺跡から調べてみると,敦憧付近の粛北五個廟石窟第l窟は,北朝時代に創建され,西夏時代に修復されたようだ。窟には文殊変と普賢変が描かれている。背景としては水墨山水画が見られる。険しい山峰が準え立ち,構成はぎりぎりで,空間の余裕はない。検林窟第3窟の山水構成と違う。ただ,色が薄く,主に水墨を使うのは共通している。壁画の時代について,具体的な証拠はなく,検林窟第3窟と比べて,よく似ていることから,西夏時代と認めたという。たしかに,文殊変や普賢変,2 元代説78

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