鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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それに,八塔変などのモチーフが同じであるが,人物の様式や経変の構成などもいろいろ違う部分がある。要するに,粛北五個廟第l窟の壁画は撒林窟から学んだ可能性が非常に高い。そして,時代としては,検林窟第3窟よりやや遅いと考えられる。山西省の岩山寺(1158)壁画は西夏と同時代の金代に造営した寺院の壁画である(注9)。其の中に経変の背景として山水や建築などが描かれていた。山水樹木は群青,緑青などの顔料をたくさん使って,唐代以来の伝統的な青緑山水と言えよう。慶陵の遼代壁画では,四季山水図壁画が残っている。墨線が用いられたが,水墨画とはいえない。そして,山水の構成は極めて簡単で,北方地域の景色を表し,両宋期の新たな山水画風をまったく受け入れなかったようである。内蒙古ハラホト地区では,20世紀初め頃,ロシア探検隊によりたくさんの仏画が発見された。いま,ロシアのエルミタージュ美術館で、保存されている。それらの仏画を調べてみると,経変や仏来迎図,観音菩薩像などがあるが,山水の表現はほとんどない(注10)。五個廟石窟を除いて,以上三ヶ所の西夏時代の美術品を考査したが,檎林窟第3窟に現われた山水に共通する資料はほとんどない。地域的にはハラホトは敦埠より,西夏の中心地興慶(今の銀川付近)と近い。もし当時新しい画風が西夏で流行したとしたら,ハラホトに何も反映することなく,敦憧だけに伝わったということは,なかなか想、f象し難い。歴史から見れば,敦憧地方が西夏に支配されたのは1036年から1227年頃であるが,ちょうど北宋から南宋の間,北方では,金,遼,西夏が共存していた。11世紀から12世紀にかけて,西夏は近隣の金や,後の遼,北宋及ぴ後の南宋と次々に,戦争を起こしていた。12世紀の後半から情勢は少し安定し,ょうやく西夏文化の繁栄時期を迎えたのは,12世紀の末ごろである。その後,三十年ぐらいを経て,モンゴル族の元によって滅ぼされた。機林窟第29窟は,明確な供養者の題名があるので,考古学の研究により,この窟は1193年に造営されたことが明らかになっている(注11)。これを基準として,西夏後期に新たな石窟を造営するのは,恐らく12世紀末頃からだろうと思われる。検林窟第3窟では,第29窟と壁画の様式については大きな差異がある。山水画がその一つである。第29窟にも文殊変,普賢変を描いたが,その背景としての山水はかなり簡単で,図案のようであり,第3窟の山水画と比べものにならない〔図16〕。経変図-79-

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