鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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⑩近代大阪の日本画家と大阪の印刷・出版研究員:大阪市立近代美術館建設準備室主任学芸員橋爪節也はじめに大阪の日本画研究の問題大阪は経済優先で文化芸術の育ちにくい“物質の塵都"と呼ばれ,美術と縁遠い土地とされるが,明治末大正初期には個性ある日本画家たちが登場し,画壇の大きな転恒富は,再興美術院に第l回展から参加した院展同人で,美人画に新境地を開くとともに,大阪の土地に深く根づいた画家でもあった(注1)。その恒富と野田九浦(1879成され,大阪画壇変革の重要な契機となった。しかし同会は,東京美術学校や京都市立絵画専門学校の同窓生を中心に日本美術院や国画創作協会が結成されたのに比べ,新しい日本画創造を志しながらも,特定の画塾や美術学校出身者で固められたものではなく,大阪を拠点にする点は一致するが,画風・流派を異にする多彩な画家の集団であった。もともと大阪には大正12年開設の大阪市立工芸学校まで公立美術学校がなく,明治末大正初期に大阪画壇興隆の中核を担うべき美術学校は存在していない。大正美術会の結束も強いものではなく,運営も円滑に運んだとは思えない節もある。しかし筆者は,こうした求心性の希薄な画壇状況にこそ,商工業都市大阪独自の美術風土や画家の生き方が反映されていると考え,それに関心を寄せてきたのである。大阪は進取の気性に富む土地と言われるが,美術に関しては保守的な面も強く,大塞術品の保護奨勘されないのは勿論であって,新進の童家は賓に惨めな境遇に居る有様」とし,古美術熱から「天下の名品を悉く大阪人の手で買占めゃうといふ程の意気込み」だが「天下の恒富といっても過言ではない程の新進童家」を知らず,大観,栖鳳など東西の大家を援助して地元の若手を顧みないと批判する。また大阪には,船場の富商などの援助で,文展帝展など公募展に背をむけ市井に埋没した写生派系のいわゆる町絵師も多い。現代でも古くからの大阪人には彼らの温和な画風を好み,恒富を灰汁が強いと退ける傾向がみられる。公立美術学校もなく,富裕層の援助も乏しい大阪で,新しい日本画を目指す若い画家はどのように活動の機会や場を得たのだろう。恒富の場合,新聞社や印刷業と結びついて画業を出発させ,それを背景として大阪換期をむかえる。その中心的画家として活躍したのが北野恒富(1880~1947)である。~ 1971)が中心となり,大正元年(1912)に在阪の若手画家を集めた大正美術会が結正5年の『美術重報』の空閑「三府の童壇」は,I古来商業の大都曾であることとて,北野恒富とその周辺を中心に一一94

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